子供の社会性の涵養といじめ問題に関して なぜいじめ問題はなくならないのか 2006/10/25
☆今日のマスコミでも取り上げられておりましたが、子供の『いじめ問題』の根絶は、現場の先生方や教育委員会などが力を入れて取り組んでも、今のところ至難の業である様相です。 今の子供達は、同級生や上級生、あるいは先生などからも様々なケースでハラスメントを受けており、その課題の根は大変深いものがある、とされております。
しかし、この問題は近代社会において今の学校制度が制定されてからずっと存在していたかというと、我々の世代が学童や生徒であった頃までは、ほとんど表面化していなかったはずなのです。 なぜ最近、全国的に、あるいは小学校から高校までを通してこの問題が注目されて来ているのでしょうか。
先生の質が下がっただの、日教組が悪いだの、教育委員会が機能していない、などという『悪者探し』の議論も一部にはありますが、やはりそれだけではないように思えるのです。 もちろん、現代の子供の『親』にもその原因の相当の部分があるとも思えます。 従来の社会では当たり前であった、就学期以前の段階での家庭の『しつけ』が全くできていない、教育放棄としか言い様の無い親たちも一部には存在していることも事実でしょう。
しかしやはり、いじめという現象の起こる原因の最大のものは、子供達自身にあるのではないでしょうか。 ただこれは、現代の子供達が一方的に悪いということではなく、彼等の、特に幼年期における『社会訓練』が殆どなされていないというのがその最大の要因のように思われるのです。
団塊の世代以前の人なら、昔我々が子供だった頃は、大抵近所に年上の子供がいて、それらの先輩からいろいろな遊びや子供間のルールなどを教わった記憶があるはずです。 その日々の『子供同士の遊び』の中から、喧嘩の仕方や仲直りのやり方、大人や先輩との関わり方、また年少者の扱い方やリーダーシップの取り方などを、実践体験の中から身に付けていったはずなのです。 だから、人を殴ったらその人は痛く感ずる、とか、刃物で人を傷つけたら血が出る、とかを身を持って体験し、また弱い者いじめはいけない事であるとか、人にはいたわりの心を持って接するべきであるなどといった、人間としての基本的な『社会性』を養ってゆくことができたわけです。
最近の子供達はこれとは全く逆の立場にある、と言えるのかもしれません。 少子化の影響などもあるのでしょうが、彼等がこういった地域での幼児期のコミュニティを殆ど体験することなく就学してゆかねばならない現代の環境にこそ、その最大の要因があるように思えます。 今の子供達は例え保育園や幼稚園に通った経験はあったとしても、特に異なった年齢の人間と自分の意思でコミュニケーションし、その体験を通して自己訓練や学習を行なってゆく過程を経験しておらず、人間として必要とされる『原体験』の相当の部分が欠如している、という事実の中から、様々な問題が発生していると思われるのです。
彼等は、『人を思い遣る心を持っていない』のではなく、『人を思い遣るべきだと発想することが出来ず』、また『どう思い遣るべきなのか解らない』わけなのです。
☆以上のことは、多少でも教育に関わっている方ならすぐにでも理解出来る筈なのですが、最大の問題は、その課題に対する現実の対応が全くといっていいほど場当たり的且つトンチンカンなやり方でしかない、ということなのです。 ニュースなどでクローズアップされるのは、現場の責任逃れに終始する姿勢と、教育委員会幹部の他人事のような言動、そして文部科学省幹部や代議士連中のその場限りの無責任な受け答えしか見えてきません。 彼等にとっては、『いじめ問題』は単なる『給料のうち』の一つの課題に過ぎないのでしょう。 彼等に期待するのは、そのレベルからいっても酷なのかも知れません。
やはりこの根本的解決については、『地域』の住民皆が自分達のこととして考え、具体的に行動を起こすことが必要と考えます。 各地域の中で、子供達を就学期以前から皆で見守ってやり、子供達自身がコミュニティを作り上げることができるような環境(親の理解と協力、場所と機会の提供、若干の援助など)を作り上げて行くことが、大きくいえば日本民族の未来に繋がる事になるはずなのです。 先生方も、教育委員会の横槍などほって置いて地域の皆さんと真剣に討論されては如何でしょうか。