高校履修漏れ問題の本質について 2006/10/27


☆昨今のニュースにおいて、全国の公私立高校で大学受験対応のために必修科目を履修させず、単位不足のために生徒の卒業が危ぶまれていると報道されておりました。 現在この問題は全国の高校で起こっており、26日の朝日新聞の論調では、一面トップで『ルールを無視、重い責任』という見出しで現場の規則違反を問題にしておりました。 しかし、全国で1〜2校、或いは最大でも数校でのことなら、紙面の通り現場に責任があることは明白ですが、全国大半の都道府県で一律に、そして400校以上もの高校でこのような事が行なわれており、そしてそれは過去5年以上にわたって継続して行なわれてきた実態である、といいます。

 これはとりもなおさず、その最大の元凶と責任は教育の現場にあるのではなく、現状を無視し放置してきた文部科学省とその制度政策そのものにある、といってよいことである筈です。

かつて哲人のソクラテスは『悪法も法である』と言いましたが、現状を無視し、現場と全く乖離した法律や政令を垂れ流し、その矛盾に全く関心も寄せない文部科学省こそが責任を糾弾されるべきだと思います。 現代の民主主義社会においては、『悪法は即、訂正されるべき』であり、それを長年にわたって怠った当局の責任は厳しく追及されなければならない筈です。

 もちろん、今回の一番の被害者である高校生達に、これ以上の精神的肉体的負担を負わせるべきではありません。 また百歩譲って、その『必修』とされる科目が、彼等の今後の人生において多大な影響を及ぼすものであるならそれもやむを得ないでしょう。 しかし日本史や世界史など、現在の日本の歴史教育の内容そのものが、本来のあるべき姿、即ち『旧きを訪ねて新しきを知る』ための教育ではなく、単なる『お受験のための詰め込み』教育に成り下がっている現状では、履修不足科目の無理やりの授業強行は、単なる文部科学省の面子のためにのみ、彼等の貴重な時間が浪費される事になりかねません。

 多少うがった見方をするなら、今回の阿部内閣の発足により、教育制度の抜本的見直し論が叫ばれて審議会も発足したこの時期において、過去5年以上も放置され黙認されてきたこの問題が、ここで突然クローズアップされたのは、縄張りを乱されたくない文科省の役人連中が、自ら演出した『猿芝居』に他ならないのではないでしょうか。 若し本当に彼等が現場の実態を全く知らず、ここにきてはじめて実態が判ったのであれば、文科省はこれまで全く仕事をしていなかったことになり、省の存在価値は完全に”0”であったということに他なりません。 やはり彼等は実態を知っており、彼等の省益を守るという思惑から意図的に問題視し、『現場はすぐに悪いことをするから、自分達文部科学省の権限を強化すべきである!』といったメッセージを出したい訳なのです。
 もしそうであるなら、全くふざけた連中であり、文科省の解体も考えねばならない事になってしまいます。 安倍政権としても、厳しくこの騒動を監視してもらいたいものです。

 こんなばかげた騒動に踊らされないよう、生徒諸君、そして現場の先生方、頑張れ!

 (11/2追記)
☆方向としては、文部科学省の思惑通りの流れに進んでいるようです。
履修漏れ教科を最大70時間履修させるということで、決着させるという政府の方針と報道されています。 同時に現場の責任問題、つまり特に各県の教育委員会の責任が叫ばれてきております。 この先は、やはり中央の権限強化の方向に持ってゆきたいのでしょう。 全ては幹部役人連中の筋書き通りに進んでいるようです。

 しかし、その中で意図的に置き去りにされているのが、昨年までの未履修者の扱いです。 この問題は5年以上前から遡って存在しており、たまたま(実際は文科省が意図的に)発覚した本年の対象となる生徒だけに履修を押し付けているわけです。 法の下の平等が基本のはずですから、もう既に大学を卒業して社会人になっている人達の高校卒業認定も、若し未履修であれば過去に遡って取り消すか若しくは改めて補習を受けささねばならない事になってしまうのです。 この点を意図的に無視し、小手先だけの対応でお茶を濁そうとする姿勢は、やはり今回の騒動は安倍政権の教育政策審議会に対するブラフ以外の何物でもないということがバレバレだということに他なりません。




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