けんか太郎よどこへ行く  ずっと忘れ去られてきた『総理の品格』  2008/10/ 2


☆2〜3年前、数学者である藤原正彦氏の『国家の品格』という本がベストセラーになりました。またその後、坂東眞理子女史の『女性の品格』という本も巷の話題になったことは記憶に新しいところです。 やはり、人が人であるためには、そこに各人の『自負』と『人としての誇り』、そしてそれに立脚した『相応しい具体行動』が必要であり、両氏の著書は、現代の我々に対しその再確認を促すものでありましょう。これらの本が沢山売れるということは、逆にそれらの具体的な現代基準が、あらためて求められている時代である、ということに他なりません。

 先日、麻生太郎新総理の所信表明演説がありました。 内容はご高承の如く、総理大臣本人の政治信条等を表明したものとは程遠く、間近に迫った衆議院選挙と、ねじれ国会の相手先である民主党を強く意識した、いわば民主党小沢党首に対する喧嘩状そのものであり、総理としての自分が今後どんな政治を行いたいのかといった、本来表明すべき、国民に対して自らの信条を吐露するという内容については、殆ど皆無でありました。
これに対するマスコミ等の世評は、これは国民に向けたメッセージではなく、『異例』という活字が大きく躍った、まさに民主党に向けた『果たし状』であったと論じております。
 この、総選挙を意識して自民党に衆目を集めるというスタンツ効果を狙ったアピール作戦の是非はともかく、麻生新総理のこの演説内容は、彼の政治家としてのレベルが那辺にあるかを垣間見せてくれたものであったように思われます。
そこには、自民党新総裁としての彼の気負いと自負はあったのでしょうが、日本の第一人者、また民主政治のトップの座としての『総理大臣』としての意識は、それに比していささか希薄であったとしか思えないのです。

 過去、少なくとも71代総理の中曽根氏くらいまでは、現役時代には様々な毀誉褒貶はあったにせよ、取り敢えず一国の宰相としての本人のプライドと自負、そしてなによりその言動には何らかの『品格』があったように思われます。 彼等は、一国の宰相として相応しい言動については、基本的にきっちり弁えておられたのです。
しかしそれ以降の方々は、些か失礼ながら、総理の器としても相当『小ぶりになった』としか感じられないのは私だけでしょうか。
女性スキャンダルで辞めた方などは論外として、85代の森さんなどの様に『でもしか総理』(自民党の密室会談で「森さんでもいいじゃないか」「森さんしかいない」で決まったとか)のレベルの方しか自民党には適任者がいなくなったのかもしれません。
もちろん、若い議員の中には、大変力量と可能性のある(と見受けられる)人達もいるようですが、まだまだ根強い年功型の自民党派閥システムの中に埋もれてしまっている模様です。

 で、今回の麻生氏ですが、『総理の品格』などという言葉とは無縁の模様で、まだまだ一国の宰相としての自覚が持てておられない状態に見受けられ、しょっぱなから「けんか太郎」で突っ走ってしまうのでしょうか。 このままでは、単なる選挙を戦い抜くためだけの総裁であり総理大臣でしかなく、自民党の『客寄せパンダ』として、またまた使い捨てにされてしまう可能性が大きいと思われます。 国民の一員として、些か馬鹿馬鹿しくまた恥ずかしい感じがしてなりません。
やはりこれも、世襲の総理が続いている(小泉・安部・福田・麻生)ひとつの弊害なのでしょうか。 本来なら、いやしくも世襲議員の彼等であれば『ノブレス・オブリージュ』(高貴なる義務⇒自発的な無私の行動を促す明文化されない社会的義務)くらいは知っているはずなのですが、最近ずっと、我が日本国の宰相に、『あるべき品格』が見受けられないのは大変悲しいことです。

 新総理の最初の一声が、恥も外聞も無く『いっちゃん、勝負!』では目も当てられません。理性でなく感情を優先させる如くの方は、宰相としての器でないことは明らかなのです。『民主党が悪いから法案が通らない』という『被害者意識』を前面に出し、他者を悪者にして自己正当化を図るという手法は、20世紀初頭から中盤にかけての開発途上国における社会主義政権の如く、時代遅れのカビの生えたやり方でしかなく、良識ある人々の顰蹙を買う以外の何物でもないのです。

 世はまさに世界経済混乱の瀬戸際にあり、党利党略や総選挙にらみの『コップの中の嵐』に汲々としている時ではない筈なのですが。






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