大相撲の八百長 なぜ悪い? 凝縮された日本人らしさ故の角界の悲喜劇 2011/ 2/12
☆昨今、過去からいろいろ言われてきた大相撲での八百長行為が、とうとう白日のもとにさらされ、関係者はもとより、政府諸官庁やNHKなどのマスコミも巻き込んで、喧しい限りとなっております。
まあ、日本人の常識から言って、誰が考えても相撲の八百長については、江戸期に大相撲が仕組みとして固まった当初からずっと存在しており、謂わば『影の伝統』として、連綿と受け継がれてきたであろうことは、少し物事を知っていれば子供にでも解ることではあるでしょうね。 過去、『無気力相撲厳禁』という通達が相撲協会幹部から何度も出たということは、つまり『お客にあからさまに疑われるような素人っぽい八百長はするな! するなら、ばれないようにプロらしく真剣にやれ!』ということに他ならないのでしょうか。
もちろん、今の相撲協会や政府関係者達がそれをおおっぴらに認めるわけにはゆかない事はその通りなのですが、一部の週刊誌(週刊現代でしたっけ)などが地道かつ執拗に報道して来た内容については、その大半は事実なのでしょう。
でも、完全な第三者的立場で考えてみた場合、なぜ相撲の八百長行為が『いけないこと』なのでしょうかね。
『そんなこと、ダメに決まってるじゃん!』って、ちょっと待ってください。そこで思考停止してしまうんですか?
筆者は、幸か不幸か、こと相撲に対しては、過去から格別関心もなく、『栃若時代』とか『巨人大鵬玉子焼き』などとはやされた時代においても、これといった興味もありませんでした。
世間では『日本の国技』などとも表現され(『国技館』はあるけど、実際に国が国技と認定している訳ではないそうです)、相当数の国民の関心ごとである大相撲ではありますが、自分的には何の思い入れもないわけですから、かえって今回の騒動についても、冷静に見ることができると思っております。そんな視点から見た場合、今回の八百長発覚について、大騒ぎする世間やマスコミに対して、一面で違和感を感じ得ないのです。
たしかに、同様に国民的な人気を集めている野球やサッカーなどのプロスポーツについて、所謂八百長や出来レースなどと呼ばれる行為は、基本的にご法度であり、また、ボクシングなどのプロ格闘技においても、大半の試合はガチンコで行われているのでしょう。
しかし、同じプロ格闘技として、プロレスを例にとってみた場合、その興業試合について、全てがガチンコの真剣勝負であると信じて見ているファンは、今の日本人で殆どいないと思います。我々はプロレスについては、基本的に『体を張った格闘ショー』であり『見世物』であると正確に認識しているわけですね。
勿論、タイトルマッチ等、本気でプロレスラーが戦う場面も多々あるでしょうが。
で、どうして同様のプロ格闘技である『大相撲』に対して、『ガチガチの真面目さ』を一方的に求めるのでしょうかね。
我々日本人が考えている『相撲に対する認識』ってどのようなものでしょうか?
相撲は、古くは『神事』として行われ、それが江戸期頃より『見世物興行』としての要素が付加されて、専門職人集団としての大相撲のシステムが確立され、明治以降においてはそれが『国技』などと称されて日本人の文化的アイデンティティ確立の一助とされてきました。要するに、プロスポーツor格闘技としての位置付けとあわせ、『日本古来よりの伝統技能』としての位置付けがミックスされてきたと考えてよいと思います。
そして、相撲というものが『日本人らしさ』のひとつのシンボルとされたことは、即ちその中に日本人の心情を具現化し代弁してきたとも言えるわけです。
今の大半の日本人のメンタリティは、物事の全てを二元論的に完全に決着をつけて白黒をはっきりさせるよりも、ある程度のレベルで、ファジーであいまいな部分を残しておくことをむしろ好む性向が見られることは、よく知られております。
良く言えば中庸を好む、悪く言えば煮え切らず中途半端、と諸外国から時に揶揄され、よくも悪くもそれが日本人らしさである、とされてきたわけです。
日本人は、過去の相撲の歴史においても、『人情相撲』などという表現で、真剣勝負のはずの取組の中にも人間味を求め、力士と観客との阿吽の呼吸の妙を要求してきた大方の人達の意思も大きく影響しているといい、いわば皆が認める『限りなく八百長に近いが、結果として喝采を受ける取り組み』という要素が加味されてきたといいます。
要するに、今まで『伝統的に』行われてきた八百長試合についても、『言わずもがな』『野暮なことは言いっこなし』として、観客は暗黙のうちに了解していたとするのが正解ではないでしょうか。
つまり筆者が言いたいのは、八百長行為が『けしからん』とか『宜なるかな』とか言う前に、我々日本人として、『大相撲』に対して、いま具体的に何を求め何を期待するかを、明快に示すべきだ、ということなのです。
彼等八百長を行った力士の行為は、いわば曖昧さを好む日本人の心情と、それに立脚した角界の伝統に根ざした行為であるとも云える訳ですから、その根幹を明確にしてあげないと、相撲業界の人達も、マスコミや政官界の一部の人間の本音と建前の狭間に、ずっと苦しむこととなるのではないでしょうか。 少なくとも、今の角界の伝統的報酬システム自体が八百長行為の大きな一因であるとの指摘は、正鵠を射ていると思います。
仮に、大相撲について、プロレスと同様の『体を張った見世物興行』としての要素を多く求めるなら、あるいは日本人好みの、ファジーさをその中に求めるならば、所謂八百長行為についても、『プロとして、お客に分からないようにうまく仕組んで行』ない、観客を結果として喜ばせ満足させれば、それが正解となるでしょう。
逆に、相撲に対して、純粋なプロスポーツとしての真剣勝負を観客の大半が求めるのであれば、今後八百長行為は完全に禁止とすべきです。ただその場合、我々観客は、真剣勝負のドラマ以外の感動を、相撲の取組に求めてはいけない、ということになるでしょうね。いかにも日本人が好む類の浪花節的な人情を絡めたり、ファジーな部分を期待してはいけなくなるわけです。 極端な話、将来、幕内力士の大半が外国人力士に占められ、日本人が三役に一人もいなくなっても、『外人力士は遠慮というものを知らんのか!』などと言ってはいけないのです。
ですから、その選択を先ず国民全体として行った後に、相撲業界に対し、我々の描く『角界のあるべき姿』を示し、その道筋に従った改革(或いは回帰)を行わしめるべきではないでしょうか。
少なくとも、『プロスポーツはかくあるべきだ!』と、二元論的建前論的なモラルのみを短絡的に角界に押し付けるのは、いささか酷ではないかと思います。
相撲というものに対する具体的な定義付けを、これまで曖昧にし続けてきた我々日本国民にも、責任の半分があると思うのですが、いかがでしょうか。