なぜ日本は原子力でひどい目に遭うのか? 核分裂は黄泉の力!? 2011/ 5/27
☆今回は、いつもと少し趣向を変えて、世の中の動きについて、別の観点から考えてみたいと思います。
去る311の東日本大震災で壊滅的な被害を受け、レベル7という最大規模の原子力災害を引き起こしてしまった福島第1原発ですが、その汚染拡散の終結とメルトダウンした炉の封じ込めに向けた具体的取り組みは、事故から2ヶ月以上経過した5月末現在においても、未だ全く目途が立っていない状況にあります。
この日本のような狭い国土において、世界規模ともいうべき未曾有の原子力事故の発生は、8万人規模という多大な『原発難民』を生みだしております。
もちろん、過去にも旧ソ連のチェルノブイリや、米国のスリーマイル原発の事故もありました。しかし、それら『大事故を起こした原発』でも、問題となった原子炉は、それぞれたった一基づづだったのですよね。 それに比して我が日本のフクシマダイイチは、同時に3基の原子炉がメルトダウンしてしまった訳です。
この事故に関して、一部の週刊誌が書き立てているように『過去からの国の原子力政策の過ち』『東京電力と関係省庁が起こした人災』などと決め付け、国政責任者や経産省官僚、東電幹部などを一方的につるし上げて悪者を作り、憂さを晴らすことは簡単なことです。
しかしもちろん事態はそれで済むことでは全くありません。
近代の歴史を振り返ってみますと、日本人が『原子力』という技術によって甚大な被害を被ったのはこれが初めてではなく、65年前にも、形を変えた原子力災害 − それは2発の原子爆弾という『兵器』として使用されたものでしたが − 世界で最初に、核の惨禍に見舞われた経験があります。
勿論、核爆弾と原子炉とは、それぞれ兵器と平和利用という正反対の目的で作られたものではありますが、その経緯はともかく、結果として同じ放射線による甚大な被害は、広い範囲にわたって長期間続くのです。
ヒロシマ/ナガサキの惨禍から半世紀以上たった今でも、所謂原爆症に苦しむ人達は大勢おられ、その破壊力による被害だけでなく、放射線の影響は長期間にわたって続いております。
なぜ日本だけが二度もこの様な目に遭うのでしょうか。原爆と原子炉と形は違いますが、同じ核分裂反応による被害なのです。
フランスなど、他にもたくさん原子炉を抱えている国は多々有り、また相互にいがみ合っている核保有国も幾多ありながら、どうして日本だけが甚大な核の惨禍に見舞われるのか?と素朴な疑問を持ったのは筆者だけでしょうか?
この第二次大戦時の核の惨禍による民族的トラウマによってか、『日本人は核アレルギー』に陥っているとも過去から言われており、これまで政府が進めてきた原子力政策についても、ヒステリックなまでの反対運動が一部では行われておりました。
しかし現実論としては、エネルギー資源に乏しい日本の現状から見た場合、多量のCO2も出さず手っ取り早く比較的安価に(これには異論もあり、後処理まで含めるとかえって高くつくとの試算もありますが)確保できるエネルギー源としての原子力の利用を、実政を預かる政府が進めてきたことについては、一面やむを得ぬ面もあったとは思います。
公害対策や温暖化対策を大義名分として、札束で地元反対派のほっぺたをひっぱたきながら、粛々と原発を作ってきたわけです。そしてその大義名分中に『原発は絶対安全である』との大前提を置き、政府と電力会社、一部の公益法人とメーカーがタッグを組んで『人が作るものに絶対は存在しない』という真理を意図的に無視して、54基もの原発を作り続けてきました。
それがここへ来て、それらの大義名分が自然の猛威の前に全て吹き飛んでしまい、為政者や、原子力のプロである筈の責任者が誰も明確に責任を取ろうとしないまま、右往左往するばかりの状況となっております。
原子力安全委員会って何者ダ? 原子炉工学の本物の専門家って日本にはいないのかぃ? (~_~;
でもそのことよりも、シロウトの総理大臣が原発事故の陣頭指揮を取ろうとした事の方がよっぽどコワイですけどね。海水入れろとか入れるなとか、見事な茶番劇場を見せてくれました。
今後の福島第一の事故の成り行きを考えた場合、やはり福島県の一部は、短期中期的には人が近寄れない荒野として放置せざるを得ないのかも知れません。
先述の、旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故においては、放射能汚染物質が直接大気中に拡散し、短期間で広範囲を高濃度に汚染してしまい、25年が経過した今でも半径20Km程は立ち入り禁止となっているそうです。
一方、福島においては、直接的な放射能物質の飛散による短期間での汚染については、殆ど考えなくとも良いレベルに収まるようです。しかし地下水や海水などへの放射性物質の浸透拡散については、未だ明確な予測が殆ど立てられない模様で、メルトダウンした炉へ連続注水した約一万トン、一説には数万トンと言われている冷却水が漏れ出て地下に浸透し、それが長期間にわたって地下水や周辺の海水にじわりと汚染を広げてゆく事となると考えたが良いようです。 げに恐ろしい事ですが。
で、話を戻して、なぜ日本ばかりこう何度も核分裂物質による惨禍が引き起こされるのでしょうかね。
やはり日本には『核』は鬼門なのでしょうか。
古来より我が国は『日出ずる国』と言われてきました。つまり日本は『世界で最も早く日が昇る国』であり、『太陽の国』という事になりますか。
そして太陽の光の大元は、ご承知の如く、水素原子の核融合反応によって生み出されるエネルギーなのです。宇宙にある全ての恒星が発する光は、全て核融合反応によるものなんですね。
太陽の発するエネルギーの大元が核融合であるのに対して、地球の中で発生する地熱は、基本的に地球内部に含まれる放射性物質の崩壊による核分裂反応が元となっております。単位体積あたりにすればほんの僅かしか存在しない放射性同位元素ですが、地球内部トータルでみれば莫大な量になり、それが少しずつ少しずつ崩壊し、それにより発生した熱によって地球の中心部は6000度の高温となっている、といいます。
そして、放っておけばこの先何億年かかってじわりと熱を発してくれる放射性物質を、人類が土の中から掘り出して集め、濃縮して無理矢理一度に多量のエネルギーを発生させ、発電に使っているのが原子炉であり、兵器にしたのが核爆弾と言う訳なのです。
ま、それが人類の進歩と言ってしまえばその通りかも知れませんが。
しかしこの謂わば『地のパワー』の本質について、日本神話的に考えた見た場合、この核分裂反応は、まさに『黄泉の国(よみのくに)』のパワーと言うべきなのかも知れません。
この、地の底から湧き出てくる力に由来するエネルギーを我々日本人が使おうとした場合、それは畢竟、『死の国の力』『黄泉の国の力』に手を染めてしまう事となると言えるでしょう。
我々『日の本の民』が核分裂反応を弄ぶ事は、神代の昔から受け継がれた血の流れにより『黄泉=死』を連想させ、自ら災いを招く行為となるのかも知れませんね。
もちろん、こんなこと全く科学的な根拠などありませんが、日出ずる日本列島に生を受けた我々の基本的メンタリティに、弥生の頃から連綿として刷り込まれてきた『何か』が、地の底の力/核分裂を弄る事に対し、潜在意識において、何らかの形で拒否反応を生起させていないとは言い切れないのではないでしょうか。
日本人の『核アレルギー』についても、その大元の部分は、二発の原爆の惨禍によるものだけでは無いような気がします。
別項でも述べておりますが、元々筆者は、核分裂反応/原子力を活用する事については、人類社会が究極的なエネルギーである『核融合炉』を開発し実用化するまでの間の『つなぎの技術』としては有用である、との基本的立場を取っております。 しかし、あまりにあっけない福島第一のメルトダウン事故を見せられて、人類が今後も原子力エネルギーを使い続ける事のリスクについて、想定されているよりもっと大きなコストが将来跳ね返ってくるのではないかという危惧を抱かざるを得ませんでした。
先日、我らが総理の『(政策の中身が)すっから菅さん』は、日本政府は今後自然エネルギーの開発に注力すると、よせばいいのにG8で数値目標まで示して大見得を切りました。
真面目に考えれば、誰が見ても出来もしない事を、有象無象の利権のためにまたぞろ始めようとしております。まさに『東日本大震災火事場泥棒』ですね。
些か我田引水となりますが、今我々日本人として本当にやるべきことは、別項の度々の繰り返しとなりますが、『核分裂の開発』ではなく、また、できもしない『自然エネルギーの開発』でもなく、『核融合エネルギーの開発』こそが相応しいのです。
やはり、例え一時的なつなぎの技術としてであっても、核融合反応とは真反対?の核分裂反応を利用した『原子力』を、今後の見通しもなく無定見に使い続ける事は、やはり根本的に間違いなのかも知れません。
全国に点在する『亡国の原発』を一刻も早く廃炉にできるよう、かつてアメリカが行ったアポロ計画レベルの集中的な取り組みを行い、今の原発の跡地に『核融合炉』を建設できるような技術開発が望まれます。