ゴンスケ騒動から見えてくる日本社会の本質  2018/12/04


※ずっと更新サボっていましたが、連日マスコミを騒がせている問題について、またまた駄文を書き連ねました。

☆連日、ゴンスケ(カルロス・ゴーン容疑者)の記事がニュースを賑わせております。
 今日2018/12/4の新聞(読売の一面)にも、彼の年俸はずっと増え続けており、18年度の年俸は24億円に上ると報じられておりました。

 まあ、日本人の社会通念からすると『 もらいすぎ! 』というのは否めない所ではありましょう。

国の役所のトップである事務次官の年俸が2300〜3000万円、国の議会トップの衆院議長のそれが3600万円と、彼とは二桁も違うわけですし、民間企業の役員でも、彼程高額報酬を取っている人達は、ほんの数える程しかいないのですから。
日本社会は、かつて『一億総中流』と言われた時代もあり、一流企業オーナーでも、年俸1億以上取っていた人は殆どいませんでした。もちろん最近は世界から有能な人材を確保してくる必要もあり、企業役員の報酬についても『世界基準』(というかアメリカ基準ですね)に基づかねばならぬ時代となっているのは事実ですが。

 ゴーン氏もその流れの中、日産のCEO〜会長に就任して高額の年俸をもらい、当初はその手腕を発揮して債務超過の日産をV字回復させ、世間から喝采を浴びました。その功績は功績として衆人の認める所ではありましょう。
ただその後もずっと、リーマンショック時も含めて高給を食み続け、現在殆ど日産に顔を出さなくなったにも拘わらず、20数億円もの年俸を取り続ける事については、やはり世間からも『如何なものか』という批判が出てくるのは宜なるかな、と思われます。

ただ、事の本質が『高額な報酬がけしからんからタイホした』のではなく『日本の法令に違反した行為が見られる』所に問題があるわけで、財務処理や株主報告書への虚偽記載、私的流用が実際の問題となっている訳です。

どこかの国の最高裁判所のように『単なるやっかみや妬み』『過去の恨み辛み』『大衆への迎合』『ほとんど病的なハネ上がり』などで司法が動いたわけではないのです。その点、我が国の法曹界は、まだまともであるといって良いかと思われます。

我々部外者としては、週刊誌の論調などに付和雷同する事なく、冷静に今後の推移を見守るべきとは思います。


 ただ若し、問題となっているゴーン氏の私的流用等が日産からだけ行われ、仏本国のルノーからはそういう事実がなかったとしたなら、『日本人が毛唐になめられた!』という事となり、国粋主義的な強硬論もより散見される事となるかも知れませんね。今現在でも、『日本はフランスの植民地ではない!』という論調もちらほら見かけられます。


しかし筆者として、今回の騒動を斜見すると、どうも過去から現在までの『日本社会の本質』が垣間見えてくる気がしております。

 就任直後のゴーン氏が日産で行った事は、大胆な内部改革とコスト削減であった訳ですが、では同社の幹部達は、彼が行った改革の中身について、それまで何にも考えていなかったのでしょうか。
赤字を垂れ流すばかりで全く何も有効な手が打てず、途方に暮れていただけの日産の本社に、彼が彗星の如く現れて、快刀乱麻を断つ如く、様々な改革を彼一人が果敢に実行したのでしょうか? 若しそうであれば、それまでの日産自動車の幹部たちは何にも考えていないただのでくの坊であった事になりますが、多分そうではないと思います。

比較的容易に想像のつく事ですが、彼等は、それまでの長年の会社やその関連企業などとの強い『しがらみ』の中でがんじがらめに縛られており、『やらねばならぬ事、やるべき事が解っていても、結局自分たちではできなかった』のではないでしょうか。 勿論彼等の経営責任は厳しく問われてしかるべきでしょうが。
やはり、植木等がかつて歌った”わかっちゃいるけど やめられねェ〜”ではなく、”分かっていても できねェ!”だったのでしょうね。

 この事は何も日産に限った事ではなく、日本国内の様々な組織 - 会社や地方団体、或いは自治会や町内会等も含め - それまで長年続いてきた『ムラ社会』の中で頻繁に起きている事と思われます。

つまり、長年なあなあでやってきた組織がにっちもさっちも行かなくなった時、その打開策として助っ人に頼むのは、往々にして外部から呼んでくる『部外者』なのです。つまり組織の中のしがらみに囚われず、より冷静で客観的な判断が下せる人間に、全てを委ねるしか道はない訳で、『まあ、彼は今までの事知らないんだからしゃあないか...』と、大方の人があきらめ半分と納得半分の形での決着を図る事がしばしば行われてきております。
そしてその場合、究極の助っ人は、日本人の社会通念について全く知らないか、知らぬふりのできる『ガイジンさん』となる訳です。


 その一番解りやすい事例が、1945年から戦後の日本に連合国軍最高司令官として君臨したダグラス・マッカーサーでしょう。彼は戦前までの日本の社会パラダイムやレジームを完全に覆し、日本国が今の現代国家のシステムとなるベースを(日本人に取りそれは半ば強制ではありましたが)築き上げました。

戦後レジームとなる以前の日本は、それまでずっと謂わば『武家社会』であり続けました。
一般的には武家社会の終焉は、徳川慶喜により大政奉還の行われた1868年であるとされておりますが、実際は、武士つまり戦士階級が明治維新でいなくなった訳ではなく、その後の明治〜大正〜昭和20年までの期間は、いわば『国民総武家社会』とでもいうべき時期と考えるべきでしょう。明治維新も下級武士階級が中心となり、彼等がその後の明治新政府を牽引したのですから。薩長土肥とは全て藩の名前であり、政府の要職の大半はこの4藩の出身者(全て武士)が占めておりました。
明治維新以降も日本はずっと『戦士階級出身者が主導してきた社会』であったのです。

 その最も解りやすい説明として、1868年の明治維新から1945年の終戦までの78年間に日本が行った『戦』は、計8回もありました。
戊辰戦争・西南戦争という二度の内戦を経て、日清・日露・第一次大戦・満州事変・日中戦争そして太平洋戦争と、10年に一度以上の戦を行ってきました。 そして最後の太平洋戦争では、計280万の戦死者と30万以上の民間人犠牲者を出しました。
その後現在までの73年間では、ご承知の通り日本が行った戦争は皆無です。
やはり、近代における日本人の決定的なパラダイム変換、レジーム変換は、明治維新ではなく太平洋戦争の終結に求めるべきでありましょう。

 そう考えると、なぜ一部の人間とはいえ日本人が1945年の終戦のショックで『平和ボケ』となったのかも容易に理解できます。つまり日本人は、12世紀末から760年に亘る武家社会の、『常在戦場』という社会的プレッシャーから一気に解放されたわけであり、戦後70年以上経った今でも『戦争絶対反対!』というおめでたい人達が未だに存在するという副作用が残っているのです。
(理念としての戦争反対論は当然ではありましょうが、国家としての自衛力の保持まで否定してしまうのは、無責任以外の何物でもありません。)

  『世界は平和だ〜!世界は平和だ〜!』と一晩中壁に向かってぶつぶつ言っていれば、本当に世界から戦争がなくなると信じているような、お目出度い人達が世の中にはまだまだいるようです。
(一部の政党の人間は、分かった上でメシの種として、プロとしてやっているのでしょうが)

 そして彼等は現在の日本国憲法−『GHQが日本を効率よく支配する為に定めた、GHQ憲法』を金科玉条の如く戴き、『憲法改正、絶対反対!』と、いかなる理性の声にも全く耳を貸そうとしないのです。
憲法を作らせたアメリカさんでさえ、ここまで一部の日本人が『憲法盲守』しようとは思ってなかったでしょうね。 憲法とは、所詮人間社会の為にあるものであって、必要な時がくれば変えるのは当たり前なものの筈ですが。
で、それらの人達の心情はやはり当時のマッカーサー元帥を『神格化』しているようです。

 結果としては、彼は当時の日本社会が抱えていた根本的課題を、鶴の一声であっさり変えてしまいました。
当時の、もはやどうしようもない程の課題となっていた 農地解放(小作農従事者の貧困問題、格差問題の解決)・華族制廃止(封建社会の残滓一掃)・財閥解体(独占資本の解体)・普通選挙実施(婦人参政権獲得)など、それまでの日本国内のステークホルダー(利害関係者)の反対等により、到底当時の日本人自身では解決できない諸問題を、連合国軍最高司令官の『命令』として、いとも簡単に実現してしまいました。
いやはや、ガイジンさんの威力は日本人には良く効くんですね。
勿論、これらをすんなり受け入れたのは日本人であり、当時の人々もそれらの諸課題については良く理解しており、利害関係者以外の人は、ほぼ全面的に歓迎した事が最大の成功要因であった事は事実でしょうが。


 ということで話を戻して、結局、当時の日産についても、同僚や部下がいくら同じ正論を言っても聞く耳を持たなかった幹部連中も、よそから来たガイジンさんが同じ事をいうと、鶴の一声でそうなってしまったのでしょうね。
(この事で、別にゴーン氏の功績を否定する訳では決してありません。彼独自のアイデアや見解も多々あったとは思います。)


 やはり未だに日本人は、身内には強いが部外者には弱いのでしょうか。
私見として、これらの事の根本要因は、やはり『日本社会の二重性』に根ざしているのではないかと思われます。
日本社会は昔から『ムラ社会』などと言われております。身内で固まり、その内部で結束を強めて外部に対抗してゆく、これが強みとなりまた弱みともなっている訳です。
この『ムラ』というのを社会学でいうと、『部族社会』にあたるようです。
これは、アメリカの社会進化論人類学者エルマン・サーヴィスの提唱する社会進化の4つのレベルでいう中での『トライブ』に相当すると思われますが、4〜5世紀以降、日本が統一国家となった後も、国内各地ではムラを中心とした単位での社会運営が継続して行われ、地元の事はムラの中で自分たちで決定し、外からの課題(国や領主などからの賦役や要求等)についても、ムラ単位で対応してきた流れもあり、日本国内はこのステート(国家)とトライブ(部族)の二重構造として成立し、古来以降ずっとその流れでやってきたと理解できるのです。
その場合、何事もない平時であれば部内者同士のなあなあで決めてきたものが、それが通用しなくなった時は、部外者の意思(例えそれが意に沿わぬものであっても)を聞くという流れができてきたと思われます。

 この、外部からみると独特に見える意思決定手法が日本社会の特色なのかも知れません。

 ムラの中は基本皆平等で、一人が抜け駆けする事は許さぬ、という考えが、国内企業の役員報酬が一般社員のそれと余りかけ離れてはおらず、外国企業のそれとは1〜2桁違う事が当たり前であった主因と思われるのです。
その流れの中で、今回の騒動が起こったと考えれば、話の筋道として理解納得できると思われるのですが、皆さんはどう感じられたでしょうか。



 ゴーン氏の総資産は、一説には2300億円ともいわれているそうですが、どうもその全てが汗水垂らして働いて得たものではないようです。
 彼もまた、『強欲資本主義の罠』にはまってしまった一人なのでしょうか。



彼のこれまでの功績は功績として、小手先の資産隠しや公私混同、会社の私物化等については、本人自身でこの先きっちりけじめをつけて欲しい所ですが、多分、司法とは全面対決になるでしょうね。

 人間として、そろそろいいかげんに けじめ をつけよう

   けじめ人間 ゴゴン ゴ〜ン  なんちて

      ( 園山俊二氏の『ギャートルズ』知ってる人今どのくらいいるんだろう? )



※ゴーン問題から話はあちこちに飛んで、複数のテーマをごっちゃに論じたので、論点が多少ややこしくなってしまいました。m(_"_)m






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