☆吉備の国とは?
◎今の岡山県を中心として、江戸期までは備前・備中・美作、及び備後(広島県東部)の地を『吉備』と呼んでいました。
また、ずっと以前、古代(古墳期〜奈良期)に於いては、この地方一帯は『吉備の国』として、一つのまとまった地域でした。
そして、現在は香川県となっている小豆島や瀬戸内海中域の島嶼部の大半は、これも江戸期頃までは備中国に属していたとの事であり、本来の吉備の国のエリアは、中部瀬戸内海の大部分に渡っていたそうです。
この地は、北九州と畿内の中間に当たり、弥生期から交流交易の中継地点として古くから開け、一世紀半ば頃から人口が急増し、三世紀頃には、倉敷市矢部にある楯築墳丘墓に見られる如く有力な首長が既に存在し、『クニ』としての形が早くから成立していたと考えられております。
◎また、鬼退治で有名な『桃太郎説話』は、ご高承の通りこの吉備の地の伝承を元にしていると言われており、この話に出てくる 『きび団子』も、実際は『黍』の団子であったのでしょうが『吉備』団子とされるケースが多く、実際、岡山の名物となっております。
◎ここで、この『吉備の国』にまつわる古代の歴史について、その概要の一部に関し、ざっと考察してみたいと思っております。
ただ、吉備古代史のアウトラインについては碩学諸氏の著名な論も多く、ここで素人の私が改めて新たな論を展開する必然性もない訳でありますが、吉備の国の歴史の中で今もって具体的な定説の存在しない『吉備津彦伝説』つまり、桃太郎説話の桃太郎のモデルとなった(とされている)『大吉備津彦命』と、鬼のモデルの『温羅』の戦いについてスポットを当て、実際の史跡や伝承等を踏まえ、通常の歴史考察から( 無謀にも (^^ゞ )もう一歩踏み込んで、若しそれが史実だとしたら実際どういうものであったかについて、考えを巡らせてみたいと存じます。
私が高校生の頃、自転車で各史跡を廻り、また最近改めて自家用車で廻ってみて、その位置関係等も把握し、あわせ史跡の謂れなども参考にして、極力『目に見える形』にしてみたいと思います。
CONTENTS | |||
吉備の国 史跡巡り (一部) | 古代吉備の地勢復元 (岡山県南西部) | ||
吉備津彦伝説の復元T 温羅の伝説とは? | 港の見える丘 −吉備首長の王墓について− | ||
吉備津彦伝説の復元U 前提とした事項 | 桃太郎説話について T | ||
吉備津彦伝説の復元V 具体的復元 | 桃太郎説話について U |
CONTENTS UPLOAD 2005/11/25
※本項の考察にあたっては、金谷信之氏のサイト 他を参考にさせていただきました。
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