☆岡山 古代吉備史跡廻り

◎先ずは、岡山の史跡のご紹介から....

◎岡山県は、縄文期には既に稲作が伝えられていたとされており、早くから人々が定住し、特に弥生中期(AD1世紀頃)から人口が急増し、温暖な気候にも恵まれ、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の時期(AD3世紀中葉)には、既に『クニ』レベルのものが存在していたと考えられております。
この、古くから豊かな文化を育んで来た岡山の、県南部における主な史跡を、ここで簡単に紹介してみたいと思います。
勿論ここに載せた以外にも著名なものは多々ありますが、史跡の成立した時期を、弥生後期から古墳期まで位に絞って取り上げてみました。



◎吉備津神社(きびつじんじゃ)  備中一ノ宮     岡山市吉備津931

◎祭神は『大吉備津彦大神』並びに配祀八柱の神とされている。
吉備の国が備前・備中・備後に分割される以前(7世紀頃まで)は、ここが吉備津彦命を祀る元の宮であった模様である。
この神社は、同じく大吉備津彦命を祀った『吉備津彦神社』と同様、『吉備の中山』にあり、その北面に位置している。  弥生期から古墳期にかけては、この地は『吉備の津』の入り口に位置する独立した島であった。

神社の域内は、吉備津彦命を祀る本殿と、命の父(孝霊天皇)や母などを祀る本宮との間に総延長400mの回廊を持つ独特の様式を取っている。
本殿と拝殿は『吉備津造り』と称され、全国でもここだけの形式であり、室町期初期に再建され、現在は国宝に指定されている。
また、回廊の途中には御竃殿(おかまでん)があり、お釜の鳴動の音の大小や長短で
吉凶禍福を卜す 『釜鳴りの神事』で知られている。

また、この神社本殿の中にある『御崎宮』(みさきぐう)の祭神の中に、吉備津彦命と戦った『温羅』の名があり、この神社の大元は、温羅に対する鎮魂施設だった形跡が見られる。

この神社は古くから吉備地方の人達の信仰を集め、初詣などには沢山の参拝者で賑わいを見せる。

現在、本殿は修復工事中であり、本殿の独特の建築様式は窺う事が出来ない。

広い駐車場も完備されており、土産物店もあり、岡山市内からR180号を経由し10数分で吉備津神社前信号を左折し、神社の正面に出る。
そこを右折し広い駐車場に車を止める。
現在、『本殿』は修復工事中でした (上部の青い囲いの中です)
こちらは『本宮』です (回廊をずっと通って行った先にあります)


◎吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)  備前一ノ宮     岡山市一宮1043

◎祭神は、吉備津神社と同じく『大吉備津彦命』であり吉備津神社より2Km程東の吉備の中山東麗に位置している。
平安時代から備前一宮として崇敬されていたが、式内社ではないとのこと。

当社の創祀に関しては、一般には、大化改新後、吉備国が備前・備中・備後の3国に分割された頃、広島県福山市の『備後一宮 吉備津神社』と同時期に『備中一宮 吉備津神社』から分祀されたと見られている。
ただ、社伝ではそれよりももっと早くから存在していたとしており、星辰や磐座などの信仰の対象として、それ以前から祀られていた神々が存在し、その地に新たに吉備津神社より大吉備津彦命を分霊したのかも知れない。

ここには、温羅の伝説やその合祀は無く、純粋に吉備津彦一党の祖霊を祀ったものの様であり、社が東面している事もあり、大変明るい感じがする。

ここも参拝客が多く、広い駐車場も完備されており、JR吉備線『備前一の宮』駅から直ぐであり、交通の便は大変良い。

拝殿正面から


◎吉備中山 茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)     岡山市

◎吉備津神社の東南部、吉備中山の山頂に築かれた全長120mの前方後円墳であり、『大吉備津彦命』を祀っているとされている。
現在は陵墓参考地として宮内庁の管理下にあり立ち入ることは出来ない。
その築造年代は3世紀後半から4世紀初頭であったとされている。

測量図面から、尾根を大きく切り開いて築造されていることや、墳頂部が広いことを知ることができるこの古墳は、前方部がやや短く、特殊器台形埴輪の文様も異なっており、吉備の国の独自性を示す形式であるとの事である。

付近には桜の木も植えられており、南面した明るい場所である。
春の時期に付近を散策するのに適している。

吉備津神社から吉備中山を通って黒住教本部まで抜ける舗装道路があり、その中程に標識が立っており、その付近の路肩に車を止めてコンクリート舗装の山道を2〜3分登れば到着する。

中山陵の正面 (宮内庁管轄の表示があり柵内は立入禁止です)


◎造山古墳(つくりやまこふん)     岡山市新庄下

◎造山古墳は岡山市新庄下に所在し、吉備中枢地域の吉備路周辺に位置している国指定史跡である。
その長径は約360m(周濠含めず)あり、国内で第4位、前方部及び後円部の墳丘は三段に築かれ、その墳丘斜面には川原石の葺石(ふきいし)が葺かれ墳丘には埴輪列が囲っている。 現在の所、周壕部は確認されていない。
この古墳の築造年代は5世紀前半とされており、当時の吉備地方を治めていた大首長の墓であるとされている。

出土した埴輪には円筒埴輪のほかに家や盾、蓋などの形象埴輪も存在していることが明らかとなっている。
造山古墳、作山古墳とも本格的な発掘調査がなされていない為、詳細は明らかではないが、断片的に出土している遺物から、造山古墳が先に築造され、後に作山古墳が構築されたと考えられている。

造山古墳の築造コストについて昭和63年に大本組(岡山の土木建築会社)や考古学者を中心に試算された事があり、それによると、盛土は約27万立米を要し、大型ダンプ約4万2千台分に相当するといい、葺石の量は約4200立米と計算され、それと合わせて埴輪や石室の石材等にかかるコストを含め、築成までの延人員は150万人以上と推定され、総工費は上記時点で約200億円以上と算出されたそうである。

全国4位の古墳であるが、陵墓参考地とはなっておらず自由に立ち入りが可能であり、前方部から後円部にかけて縦断し、途中の段丘も自分の足で確認することが出来る。

ここを訪れるには、R180号から南下するかR429号より東進すれば直ぐに到着する。
古墳の近くには、トイレ付きの立派な駐車場が整備されており、30台程度が楽に駐車することが出来、音声ガイド付きの案内板もある。
ここから家並みの横の路地を通り、登り口に出、そこから石段を登ってゆく。
岡の上には社があり、その前を通り円部頂上に登る事が出来る。
頂上から下りるには、引き返して左手に小道を行けば、家の間を通ってもとの駐車場へ出られる。
 ※一部、『古代吉備を探る』HPを参考にさせて頂きました

<追記>
私の個人的な見解ですが、この造山古墳の位置は丁度当時の海岸線の位置近くにあたる筈であり、ひょっとしたら造成当時は、前方部基底部分以外は海に突き出た形のものであったかも知れません。  古墳本体の形状が、畿内河内のものとの類似が指摘される中、何故周壕部が確認されないのか、若し造成当時の後円部等を海水が洗っていたのであれば、わざわざ濠を作る必要は無い訳です。
仮にそれが事実であったなら、吉備の津に入港する船からもその威容を眺める事が出来た筈であり、『海に依る』吉備の王権を象徴した王墓であったと思われます。

造山古墳登り口 (前方部東端にあたります)
造山古墳駐車場から見た後円部


◎作山古墳(つくりやまこふん)     総社市三須

◎作山古墳は、造山古墳の西南西に位置し、これも長径約285mの全国9位の巨大古墳であり、その築造時期は出土した埴輪などの形式から5世紀中頃であったと推定されている。

この古墳は独立した小丘陵を削って整形、加工したもので、3段に構築されており、各段には密接して円形埴輪が立ち並び斜面は角礫でおおっている。
外周には周濠は確認されていない。

ここも陵墓参考地にはなっておらず、自由に立ち入りが出来、前方部より頂部まで道が付いているが、現在の古墳上は松林となっており、上部に登ってその形状を窺うことは困難である。

また、麓には駐車場も設けられており、30台程度は楽にとめられる。
ここを訪ねるには、R180号から県道270号線(清音真金線)を通り、三軒屋から三須への道を北上すれば良い。

前方部の頂きから後円部を見る (草ぼうぼうでした)


◎鯉喰神社(こいぐいじんじゃ)     倉敷市矢部

◎鵜に変身した吉備津彦命が、鯉に化けて逃走を図る温羅を、この地で喰い上げて捕まえた、とする伝説が残る社である。
祭神は、吉備津彦命の家来とであったされている『楽楽森彦』(ささもりひこ)とその時征伐されたとされている『温羅』となっている。

この地は西から伸びる小さな尾根の突端に当たり、すぐ東を血吸川と合流した足守川が流れている。  そして、平地を隔てた直ぐ南東には、『楯築遺跡』が
ある丘陵地となっている。
ここは、上古は小さな岬の先端であったと思われ、ここで吉備津彦命と温羅の最後の戦いが行なわれたのかも知れない。

ここに行くには、R180号〜県道270号線を西進し、足守川を渡って右折後、すぐ左に折れる。
神社前に1〜2台の駐車スペースがあるが、付近の民家の通路にもなっており余り長時間は停められない。
鯉喰神社正面


◎矢喰神社(やぐいじんじゃ)     岡山市二軒屋

◎祭神は、吉備津彦命の弟の若建吉備津彦の孫に当たる『吉備武彦』となっている。  後に天満宮を合祀し、矢喰天満宮とも称す。
その創立年代は不詳との事。

吉備津彦の伝説では、命の射る矢と鬼の城から温羅の射る矢とが空中で絡み合って海中に落ちた場所とされており、吉備の中山と鬼の城との中間地点にあたる。
境内には、鳥居の右側に「矢喰の岩」(やぐいのいわ)と呼ばれる巨岩が大小合わせて5個並んでいて、鬼ノ城から温羅が投げた岩が矢と咬合して落ちたものであるとされており、社の名の謂れとなっている。  上古、何らかの勢力の激突した古戦場の地であったのだろう。

この神社の西側を、鬼の城付近より流れ下ってきた『血吸川』が、東側を『足守川』が流れている。  以前はこの地は海であったが、河口付近であるため砂州の発達で早くから陸地化が進み、この付近か直ぐ北に、当時の海岸線があったと推察される。
ここは岡山道総社ICのすぐ東に位置し、周りは、岡山道やR180号等の道路以外全て田圃が続いており、社の東側には小公園と駐車場がありそこに駐車すると良い。
矢喰神社と大岩 (この右手は公園として整備されています)


◎楯築弥生墳丘墓(たてつきやよいふんきゅうぼ)     倉敷市矢部 王墓の丘史跡公園内

◎この遺跡は、径約50mの主墳を中心に二つの突出部を備えた、現存全長72mの弥生時代後期の墳丘墓で、1976年から86年にかけて岡山大学による発掘が行われた。  この遺跡の築造は3世紀頃のものとされている。

突出部は団地造成工事で大きく破壊されたが、残存した部分の発掘によって、そこには石列が並び、飾られた丹塗りの壷形土器多数が置かれていた事が判明した。  また墳丘の各所から、大形で飾られた器台形や壷形の土器、高杯などが発見され、盛大な埋葬の祭りが行われたことを示している。
主墳のほぼ中心、地下約1.5mの所にこの墓の主人公の埋葬が発見されたが、それは長さ約2m、幅約70cmの棺を長さ3.5メートル、幅1.5mの外箱の中に置いたもので、鉄剣や首飾りなどの副葬品が発見され、特に棺底には厚く30cm(約30Kg)もの朱が敷かれており、当時のこの地方の首長の勢力の大きさを匂わせている。

収蔵庫に収められている弧帯石は、もと主墳上にあった楯築神社のご神体として伝世されてきたもので、帯状の複雑な入組み文様が刻みこまれている。
なお、これとよく似た小形品が発掘によって出土している。
墳丘墓頂上 (楯状に巨石が配置されています)


◎大廻小廻山城跡(おおめぐりこめぐりやまじょうせき)     岡山市草ケ部/赤磐市瀬戸町

◎大廻小廻山城跡(国史跡)は、JR瀬戸駅の西方にある標高約200mの独立小山塊(大廻山/小廻山)にある古代の山城であり、西日本に点在する古代朝鮮式山城の一つ。
大廻山と小廻山にまたがる総延長約3.2Kmの土塁で囲まれ、谷部の3か所には木戸と呼ばれる石塁が残っている。
位置的には吉井川と旭川の中間にあり、南に瀬戸内海を展望でき、前面には備前国府、後背には古代の山陽道がある要地に位置している。
また山麓には6世紀末から7世紀代のものと考えられる製鉄遺跡が多く見られる。

岡山市教育委員会による発掘調査で、内托式の城壁構造、折曲型城壁形態の版築構造、城壁外側下端の延石列石を確認しており、また、城門や城内施設は不明であるが石塁築成の水門跡が3箇所あり、内1箇所は露出している。
この城跡の構築時期は、出土遺物から7世紀前半に想定する観点が優勢を占めている。

この城跡は、1940年に刊行された『赤磐郡誌』で古代山城跡として最初に紹介され、その後1973年になって岡山市教育委員会による全面的な現地踏査が行われ、この踏査により、3か所の石塁を伴い、大廻山と小廻山を取り囲む土塁線の全周や各峰々の段築跡が確認された。
これが考古学研究者や学会の注目する所となり、多くの研究者が来訪してこの城跡の重要性を認識し古代山城として広く知られるようになった。
今現在は、現地は大半が私有地の模様で、訪問しても未だ史跡の保存などは整備されておらず、どこに何があるのか、その遺構を探すのは至難の業である。

ここへのコースは、岡山市東平島交差点から県道37号線を北へ進み、瀬戸橋交差点を左折、800m程先の笹岡を左折し北面より山中に入る。
駐車場所は路肩しかなく、また山頂付近は私有地の模様であり、無許可での立ち入りは遠慮すべきである。

山中の道路よりの大廻山
大廻山頂付近よりの小廻山


◎鬼の城跡(きのじょうせき)     総社市

◎鬼の城は『神籠石系山城』に分類されている古代朝鮮式山城であり、古代の大和王権の歴史書には登場しないが、後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。
一般に温羅伝承と呼ばれる伝説で、ここの地名もこれに由来している。
城跡のある鬼の城山はすり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦であり、山の八合目から九合目にかけ城壁が2.8Kmに亘って鉢巻状に巡っている。
城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高は約6mもある。要所には堅固な高い石垣を築いており、その威圧感は天然要害の地であることとあわせ、圧倒的な迫力をもっている。このように版築土塁や高い石垣で築かれた城壁は、数m〜数十mの直線を単位とし、地形に応じて城内外へ「折れ」ていることに特徴がある。
城壁で囲まれた城内は比較的平坦で、約30ヘクタールという広大なもので、4つの谷を含んでいるため、谷部には排水の必要から水門が6ヶ所に設けられており、また、出入り口となる城門が4ヶ所にある。城内には食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡や狼煙場、溜井(水汲み場)もある。
この他に、城内には貯水池とみられる湿地が数ヶ所ある。さらに兵舎や各種の作業場なども予測されるが未発見である。
 ※以上、総社市HPより一部転載させていただきました。

鬼の城の成立年代についての現在の諸説は
 A: 5世紀 大和政権に反抗する拠点としてこの地の豪族が建設した
 B: 6世紀末以前 畿内政権が屯倉(みやけ)を掌握する目的で建設した
 C: 6世紀 渡来氏族が自らの居住地の背後に逃げ込み城として建設した
 D: 6〜7C前半 複合建設説
    渡来集団の逃げ込み城→在地首長の抵抗拠点→中央政権の管理
 E: 7世紀中葉 唐・新羅連合軍からの防衛
 F: 8世紀 天武朝の大宰制との関連
と、様々な説があるそうであるが、やはりその形式や出土品から想定すると、その築城は5世紀以前には遡れないと見られる。

しかし何れの説においても、この城が実戦に使われた(戦火に遭った)形跡は見出されていない模様であり、城名の由来となった『温羅伝説』が史実を反映したものであったかどうかについての確証は、この城跡からは確認できないようである。

この城名の『鬼』(キ)とは、古代朝鮮語では『城』を意味し、やはりこの城の建設には、渡来人が関わったであろう事が各氏の説でも言われている。
それと、伝説にある『温羅』が百済の王子とされている事もあわせ、この地方には古くから朝鮮系渡来人が住み着いていたことは確実であろう。

この史跡は今総社市が大変力を入れて整備しており、20年前に訪れた時に比べ発掘も進み、一変していた。
ほとんど復元された西門付近などは、往時の城の威容が偲ばれ(いささかやり過ぎの感もあるが)古代吉備のイメージを膨らませるのに格好のポイントとなっている。

ここを訪れるのなら、夏以外は晴天無風の日が良いと思われる。
遺構を周回するには基本的に山道であり、動き易い格好でしっかりした靴を用意し、小さめのリュックなどを持って行く事をお勧めしたい。
出来れば麓の店でお茶かジュースのボトルを購入して持参するべきである。
駐車場の横には『鬼城山ビジターセンター』もあり、原則月曜以外は開いており、そこでパンフレットなどをいただける。

ここまでの交通は基本的には車となる。
R180号から総社市金井戸の国分寺口交差点を北上し吉備線と岡山道を越え、道なりに走り標識の先を左折し砂川公園を通り、山道に入る。 そこから約10分で到着する。
ふもとの砂川公園からの徒歩だと1時間前後かかることとなる。
復元中の西門と角楼 (鍵岩展望台より)
南東方面  (千引かなくろ谷遺構付近 ⇒ 今はゴルフ場)
場外より見た西門  (壁面は版築工法を使用)
鬼の城周回GPSデータです  (ゆっくり廻って1時間半程度かかります)



  古代吉備の史跡MAP



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