☆岡山 古代吉備の地勢復元

◎ご高承の如く、縄文中期から弥生期にかけては全地球的な海進期にあり、現在よりも相当内陸まで海岸線が入り込んでいました。
もちろん、古代の吉備においても然りであり、当時の事柄を考察する上で、特に平地面積に影響の大きい海岸線の位置を推察する事は必須であると考えられます。
 ○水田面積の推定による最大人口等の算定 ⇒ どの地域でどの程度の人口が養えるのか
 ○陸上交通路の推定 ⇒ 当時の主要道はどこを経由していたのか。 陸路での往来が可能だったのか。
 ○港湾の位置や規模の移動による海運や航路の推定 ⇒ どこにどんな港があったのか。 海上交通の流れはどうか。 水軍等の推定規模は。
などの基本データとして重要であろうと思われます。

◎それを推定する手段としては、各地の発掘調査などのデータから想定する事が可能であり、それが一番確実な方法ではあります。
しかし、全ての広範囲な地域をそれで特定する訳には行かず、モアベターなやり方としては
 1.概略の地図を作成しておき、それを個々のほぼ確実なデータで修正してゆく。
 2.過去のデータ ⇒ 古地図などとそれを比較する。
事が正解ではないかと考えられます。
ここでそれらについて、ざっくりとした形ではありますが、大まかに想定してみたいと思います。


◎古地図との比較 (一例として)

 吉備の国の古地図 − 吉備国史附図 −   (『新編吉備叢書』より転載させていただきました)

備中の国南部の海岸線と島嶼の古地図です。  本冊にはこの地図の出展についての記入はされていませんでしたが、海岸線が相当内部まで入り込んでおり、大変古い時代(恐らく奈良期以前)の地図の転写であると推察されます。
これによると、当時の小田川流域は深い湾であり、瀬戸内海と直接つながっていた事になります。
また、川辺郷(現在の総社市川辺)や、庭瀬郷(現在の岡山市庭瀬)が当時は島であった事が解ります。
現在の児島半島の山並が地図の下部に一部だけ顔を覗かせており、現在の岡山平野の平野部の大部分は海中であったことになります。


 古代吉備の推定海岸線 − 弥生中期〜古墳期を想定 − 

これは、現在の標高データを基に一律に描出させたものであり、現在の標高10mの場所に当時の海岸線を想定したものです。
ただ実際は、特に河川の周辺は、その土砂の流入する度合い等により、堆積のスピードに他の地域と比べ遅い早いの差が出ることが考えられ、一概には言い切れない部分があることもまた事実です。
あくまで参考のレベルとしてとして見るべきとは思います。


◎上記の比較
上記を比べて見ると、中部吉備の部分は島嶼の位置や大きさ等に若干の差異はあるものの、概略としては概ね一致しているのではないかと見られますが、やはり小田川流域は大半が陸地となっており、これは後世にかけて、小田川が速いペースで土砂を堆積させ、現在の標高が他に比べ高めになった為であると推察されます。
また、古代の史跡との位置関係から見ても、格別の矛盾は見られません。


◎結論
ある程度の誤差を了解した上でなら、現在の標高を基にした想定海岸線の位置も、古代史の概略を把握するのに、十分実用になるのではないかと思われます。






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