第11代垂仁天皇の頃、吉備の国に百済の王子が空から舞い降りた。 その名を温羅(うら)といい、身長は4.2Mもあり、両目は虎か狼の如く爛々と輝き髪や髭はぼうぼうと伸ばし、性質は極めて凶悪であった。 温羅は備中国新山(にいやま ⇒ 総社市奥山)に居城を築き、西国から都へ送る貢物や婦女子をしばしば略奪した。 人々は温羅を『鬼神』と呼び、その居城を『鬼の城』(きのじょう)と呼んで恐れていた。 温羅の悪行に困った地元の人々は、大和朝廷に温羅退治を懇願した。 朝廷はこれを憂い早速武将を送り込んだが、温羅は神出鬼没にして変幻自在、大和の武将は空しく引き上げざるを得なかった。 大和朝廷が最終的に白羽の矢を立てたのが、第七代孝霊天皇の皇子で武勇の誉れ高い五十狭斧彦命(いさせりひこのみこと)であった。 命は大軍を率いて進軍し、吉備の中山に陣を張り、片岡山(倉敷市矢部 ⇒ 今の楯築遺跡)に石楯を築いて戦いに備えた。 当初、戦いは互角であった。 合戦が始まり、命の放った矢は、温羅が鬼ノ城から投げた岩と空中でぶつかり合い、全て海中に落下してしまい、なかなか勝負がつかなかった。 矢と岩が落ちた場所といわれるているのが、吉備津神社と鬼ノ城の中間地点にある矢喰宮(やぐいのみや ⇒ 岡山市高塚)である。 ここで命は神力を発揮する。 強弓に同時に2本の矢を番え、満を持して一度に放った。 そのうちの一本は温羅の投じた岩とぶつかり落下したが、もう一本は命の狙い通り、温羅の左目に見事命中した。 その時、温羅の目から吹き出した血は川の如く流れ、下流の浜まで真っ赤に染まったという。 後に、温羅の血の流れた川を血吸川と呼び、赤く染まった浜を赤浜と呼ぶようになった。 これに辟易した温羅は雉に姿を変えて山中に隠れた。 しかし、機敏な命は鷹となって追跡した。 そこで温羅は鯉に化けて血吸川に逃げ込んだ。 ここでまた命は鵜に変身し、鯉に姿を変えた温羅に食い付き噛み上げた。 後に、この地に鯉喰神社(こいぐいじんじゃ ⇒ 倉敷市矢部)が建てられた。 遂に温羅は降参し、命に対し、自分が人々から呼ばれていた『吉備冠者』の名を奉じた。 それ以降、五十狭斧彦命は、『吉備津彦命』と称した。 捕らえられた温羅は首をはねられ、その首は首村(こうべむら ⇒ 岡山市首部)に晒された。 ところが、その首は何年たっても大声を出して唸り続け、近在の住民を日夜悩ませた。 そこで命は部下の犬飼武命に命じて犬にその首を食わせた。 しかし髑髏になった首はなお、唸りを止めなかった。 仕方なく、命は吉備津神社の御釜殿の土中深く首を埋めさせたものの、なお十三年間唸り続けた。 或る夜、命の夢枕に温羅が立ち「わが妻・阿曽郷(総社市阿曽)の祝(ほふり)の娘・阿曽媛(あぞひめ)に神饌(みけ)を炊かしめよ。もし世の中に事あればかまどの前に参りたまえ。幸あらばゆたかに鳴り、厄事あらば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後は霊神と現れたまえ。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」と言った。 これが今に伝えられている吉備津神社(岡山市吉備津)の鳴釜神事である。 その後、吉備津彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を作って住み、吉備国の統治にあたり、281歳の長寿をもって亡くなったとされている。 その墓稜は吉備中山の頂の茶臼山に古墳に祀られている、という。 |