◎岡山県に在住しているものであれば、一度位はその話を聞いたことがあると思います。
総社市にある『鬼の城』を根城にしていた『温羅』(うら)という鬼を、大和の四道将軍の『吉備津彦命』が退治したという伝説で、この話が『桃太郎』の説話のモデルになった、というものです。
現在の所、この温羅の実在は謎とされており、若しこの伝説が何らかの事実に基づくものであったとしてもそれがいつの時代の事であったか、定説と呼べるものは、現在の所存在しておりません。

◎温羅の伝説 概略
第11代垂仁天皇の頃、吉備の国に百済の王子が空から舞い降りた。
その名を温羅(うら)といい、身長は4.2Mもあり、両目は虎か狼の如く爛々と輝き髪や髭はぼうぼうと伸ばし、性質は極めて凶悪であった。

温羅は備中国新山(にいやま ⇒ 総社市奥山)に居城を築き、西国から都へ送る貢物や婦女子をしばしば略奪した。
人々は温羅を『鬼神』と呼び、その居城を『鬼の城』(きのじょう)と呼んで恐れていた。 温羅の悪行に困った地元の人々は、大和朝廷に温羅退治を懇願した。
朝廷はこれを憂い早速武将を送り込んだが、温羅は神出鬼没にして変幻自在、大和の武将は空しく引き上げざるを得なかった。
大和朝廷が最終的に白羽の矢を立てたのが、第七代孝霊天皇の皇子で武勇の誉れ高い五十狭斧彦命(いさせりひこのみこと)であった。
命は大軍を率いて進軍し、吉備の中山に陣を張り、片岡山(倉敷市矢部 ⇒ 今の楯築遺跡)に石楯を築いて戦いに備えた。

当初、戦いは互角であった。
合戦が始まり、命の放った矢は、温羅が鬼ノ城から投げた岩と空中でぶつかり合い、全て海中に落下してしまい、なかなか勝負がつかなかった。
矢と岩が落ちた場所といわれるているのが、吉備津神社と鬼ノ城の中間地点にある矢喰宮(やぐいのみや ⇒ 岡山市高塚)である。

ここで命は神力を発揮する。  強弓に同時に2本の矢を番え、満を持して一度に放った。
そのうちの一本は温羅の投じた岩とぶつかり落下したが、もう一本は命の狙い通り、温羅の左目に見事命中した。
その時、温羅の目から吹き出した血は川の如く流れ、下流の浜まで真っ赤に染まったという。
後に、温羅の血の流れた川を血吸川と呼び、赤く染まった浜を赤浜と呼ぶようになった。

これに辟易した温羅は雉に姿を変えて山中に隠れた。 しかし、機敏な命は鷹となって追跡した。
そこで温羅は鯉に化けて血吸川に逃げ込んだ。 ここでまた命は鵜に変身し、鯉に姿を変えた温羅に食い付き噛み上げた。
後に、この地に鯉喰神社(こいぐいじんじゃ ⇒ 倉敷市矢部)が建てられた。
遂に温羅は降参し、命に対し、自分が人々から呼ばれていた『吉備冠者』の名を奉じた。
それ以降、五十狭斧彦命は、『吉備津彦命』と称した。

捕らえられた温羅は首をはねられ、その首は首村(こうべむら ⇒ 岡山市首部)に晒された。
ところが、その首は何年たっても大声を出して唸り続け、近在の住民を日夜悩ませた。
そこで命は部下の犬飼武命に命じて犬にその首を食わせた。  しかし髑髏になった首はなお、唸りを止めなかった。
仕方なく、命は吉備津神社の御釜殿の土中深く首を埋めさせたものの、なお十三年間唸り続けた。

或る夜、命の夢枕に温羅が立ち「わが妻・阿曽郷(総社市阿曽)の祝(ほふり)の娘・阿曽媛(あぞひめ)に神饌(みけ)を炊かしめよ。もし世の中に事あればかまどの前に参りたまえ。幸あらばゆたかに鳴り、厄事あらば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後は霊神と現れたまえ。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」と言った。  これが今に伝えられている吉備津神社(岡山市吉備津)の鳴釜神事である。

その後、吉備津彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を作って住み、吉備国の統治にあたり、281歳の長寿をもって亡くなったとされている。  その墓稜は吉備中山の頂の茶臼山に古墳に祀られている、という。

上記の伝説は主として『吉備津宮縁起』に記されているものですが、その内容は一種類だけではなく、バリエーションとしては十数種類もあるそうです。

これまでの諸氏の説においては、この伝承を何らかの史実の反映と捉えるものも多く、現存する史跡の多さから見ても弥生後期から古墳期にかけて、この吉備の地で少なくとも二つの勢力の戦いがあったとする事については、余り異存はないと思われます。

そして温羅の出自については、やはり渡来人、それも当時の最新の技術を持った技術者集団であったのではないかという説が多く、この集団と大和王権、または地元の王権との戦闘の事実が元になったという見方が主である様です。

しかし、若し、温羅の集団が技術系渡来人であったとした場合、他の史跡の年代推定との整合性等により、それがいつの時代の出来事であったかについては、確とした答えが導き出せないのも、また事実なのです。

○弥生中期の大規模な王墓とされている楯築墳丘墓が築造されたのは、3世紀後半の事とされている。
○吉備において、製鉄技術の伝来等により、鉄生産が盛んになるのは4世紀以降であったとされている。
鬼の城の築城年代は、発掘調査等の結果から、早くても5世紀後半と見られている。
○温羅伝説の一方の主人公である四道将軍の吉備津彦命は、八代孝霊天皇の皇子とされており、孝霊天皇は所謂『欠史八代』中の人物であり架空の存在であった可能性が高く、吉備津彦が実在したとして、その出自に関し大和の出身である事に対し疑問が残る。
吉備王権の最盛期は、造山・作山古墳の築造された5世紀前半〜5世紀中盤であった模様であり、その時代は、吉備と大和王権は緊密な関係にあったと推測されている。
○少なくとも古墳期以降、吉備と大和との大規模な戦闘は生起しなかったと推察されている。

等の事柄より、この『吉備津彦命と温羅の戦闘』が史実を元にしたものであったとしても、この歴史上の出来事を挿入できる時代を想定する事は、極めて困難な作業となっているのです。

また、この温羅伝説は朝鮮半島の神話を一部下敷きにしていると見られ、高句麗の建国神話との類似性も指摘されております。
 高句麗の神話には、天帝の子・解慕漱(かいぼそう)が、河の神・河伯(かはく)と術を争い、河伯が鯉になると、解慕漱は獺になって鯉を
 捕らえ、河伯が雉になると、解慕漱は鷹になって雉を突き落とす、という、ほぼ同一の動物に変身しての追跡劇となっています。
そしてこの温羅伝説の場合、興味深い事に、吉備津彦命が高句麗の祖先の立場となっているのです。






☆吉備津彦伝説の復元
T : 温羅の伝説とは?
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