◎そうは言っても、地元岡山県人としては何らかの具体的ストーリーを想定し、自分達の故郷で、昔何があったのかを推理してみる事にしたいと思います。

今回、下記の事実、或いは推定事項を元とし、シロウトならではの大胆な発想( 実態⇒無茶or恥知らず(^^ゞ )で、温羅伝説の内容について、その具体的復元にトライしてみることとします。


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古事記によると大吉備津彦命(吉備津彦命)は吉備の支配者である『上道氏』の祖とされており、その弟で温羅征伐に同行した若彦建吉備津彦命は同じく『下道氏』の祖とされている。
つまり、吉備を征服してそのまま現地に定住した皇族という位置付けとなっている。
しかし先述の様に、両者の父親は孝霊天皇であり、欠史八代の天皇の子孫とされており、このことから彼等は逆に現地政権の王、つまり温羅を征伐した時点かそれ以前から現地を支配していた『上道氏』や『下道氏』そのものであり、彼等が大和と同盟(或いは服属)した時点で、そのオーソライズの為に大和政権の系統に意図的に組み入れられたと考えられる。
大和と吉備の大規模な抗争の形跡が無い以上、吉備津彦命のルーツは大和王権ではなく現地吉備の王権に求めるのが正解であろう。
つまり、吉備津彦命と温羅の戦闘は、基本的に吉備の現地の者同士で行なわれたものとすべきなのだ。
一説には、吉備津彦のルーツを、大和から播磨西部を基地として進出した外来の氏族であったと想定しているものもあるが、その場合、大和との関係は当初から従属的なものとなった筈であり、造山や作山など、応神朝と肩を並べる規模の大規模古墳などは作られなかったであろう。

U:3〜4世紀頃の吉備は、未だ幾つかのブロックに分かれており、それが次第に統一される途上にあった。
当時の主な勢力としては、吉井川中下流域を主な根拠地とした、後の『上道氏』の系統と、高梁川〜足守川下流域を勢力圏とした、後の『下道氏?』の系統などがあり、互いに交渉を持ち、且つ競合していたと推定される。
当初(弥生中期頃)は『上道氏』が優勢であったが、高梁川下流域の沖積平野の発達につれ『下道氏』が優勢となり、楯築墳丘墓に見られるような、半島から輸入した大量の朱を埋葬に使用する程の力を持つ国力になっていた。
そして彼等現地の首長たちは互いに婚姻を結び、それぞれが複雑な姻戚関係にあったと想定できる。
つまり、互いが『身内』であり『敵』であり『仲間』だったのだ。
彼等古代吉備の人達のルーツは弥生期遺跡の出土品等からもやはり倭人系であったと推定され、瀬戸内海中央部という地理的優位性を生かす事が可能な為、比較的早い時期より『海人系』(海部族系)の人々が住み着き、海上交易を軸に、その実力を蓄えていったと考えられる。
そして当時の北九州の倭諸国や、畿内の大和王権に対し、海上交通においてその便宜を図る見返りとして、彼等と良好な関係を築いていたと推定できる。

V:『温羅』とは、半島よりの渡来人グループの首長を象徴しており、彼らの実態は製鉄や製陶といった当時の先端技術を持った技術者集団であったと想定出来る。
そして、その出自は扶余系ツングースの一派であると考えられるのである。
 『温羅』(うら)とは、古代朝鮮語で『うる』の転訛であり
   ウル ⇒ フル(古代朝鮮語) ⇒ 扶余(現代朝鮮語で『プヨ』)
     つまりその本来の語彙は『扶余(古くからの神聖な部族)の首長』という意味であると思われる。

W:彼等が半島より移住してきた時期は、日本列島への彼等扶余族の第一次の移住が行なわれたであろう時期、つまり3世紀後半以降の事であったと推定できる。
そして遅くとも応神朝より以前、即ち三輪王朝の時期(崇神朝期 ⇒ 4世紀終盤頃まで)の事であったとするのが、東アジア史全体の流れから見てうまく当て嵌まると思われる。

X:(温羅を首長とする)渡来集団の定住は、楯築墳丘墓を建設したレベルの、力のある現地王権を凌駕するような大規模なものであった証拠は無く、比較的少人数であったと思われる。
当時でも大人口を擁していた吉備の地にあっては、やはり、絶対少数派であったと想定され、現地の既存の王権を奪取、若しくは征服したのではなく、むしろ平和裏に共存し、現地王権の庇護を受け、その見返りとして所持していた卓越した技術の成果を彼等に提供したと想定できる。
諸氏の説にもある様に、技術力や先進文化により現地に好意的に受け入れられたとした方が正解であろう。
温羅一族が住んでいたとされている鬼の城付近は、上古には備中の国賀夜郡(かやのごおり)と呼ばれており、奈良期の『備中国大税負死亡人帳』の分析から、その住民の四割が渡来人系と見られている。
やはり、弥生期から継続して渡来人が多く居住し、その縁で七世紀に百済が滅亡したときにも多くの渡来人が移住したことが伺われる。

Y:扶余系渡来人とその末裔達は、彼等が元いた半島の伝統にならって、その居住地の近辺に彼等専用の『逃げ込み城』を築いた。  そしてこれが後の『鬼の城』などの原型となったと推定できる。
彼等の中部吉備における定住地は、現在の総社市阿曽(西阿曽・東阿曽)付近であったと想定される。
そしてそこを流れるのが『血吸川』であり、その上流が『千引かなくろ谷遺跡』(5世紀頃の製鉄遺跡)の地なのである。
勿論、当時の彼らの人数では、後の時代(6〜7世紀頃)の鬼の城の様な大規模な城を築く事は不可能であり、当初の鬼の城(のプロトタイプ)は、もっとずっと簡素なものであった筈である。

鬼の城の築造を、一発で現在の城跡に見られる様な大規模なものが作られたとする必然性は全く無い筈であり、むしろ全国の他の城の例に見られるように、同じ地に何度か築かれたものの最終形であるとした方が正解と思われる。
城郭としての適地には、その時代の要請により、幾度かに亘り城が築かれる可能性が高い。
有名な例としては、大阪城の前身は石山本願寺であり、家康が築いた江戸城は、それ以前に大田道灌が築城した跡地に建てられたのだ。

また、6世紀頃までこの地を拠点にしていた古代吉備王国は、製鉄・製陶そして製塩等の製造や瀬戸内海の海運に依る部分が大きく、他国や他部族との戦闘は『海戦』に重点を置いていたと考えられ、『篭城』という思考パターンは成立し難かったと想定できる。
故に、鬼の城(の最終形)を築いたのは、吉備の国の大半が大和政権の管理下に入り、吉備大宰が置かれた7世紀頃の事であったのではないかと考えられるのだ。






☆吉備津彦伝説の復元

U: 吉備津彦伝説の具体復元にあたり前提とした事項

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