※以下のストーリーは私の100%想像です
◎温羅一族のルーツ
3世紀の半ば、大陸東北部に扶余族ツングース系の高句麗が勃興し、しきりに南進を画策し、半島内の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)は、未だ諸国分立の状態であったが、馬韓は百済が、辰韓は新羅がそれぞれ優位に立ち、各地において統合を図りつつあった。
弁韓の地は当時『倭国』の領域であり、統一の動きは見られず小国家群がそれぞれ競合状態にあった。
そして3世紀後半になると、それら扶余系の小国家の中より、その騒乱を見限り新天地を求めて日本列島への移住をおこなう者達が現れ始めた。
4世紀初頭頃、そのなかの一派が吉備の国を訪れ、製鉄や製陶の技術者集団として、その地の王権の庇護を受けて、現在の総社市阿曽地域付近に定住した。
勿論それは大挙して押しかけたのではなく、せいぜい百数十人程度、数隻の船に分乗しての渡来だった。
彼等は人数は少数であったが、その卓越した技術と柔軟な思考により、倭人系の現地の人達ともうまく付き合い、好意を持って受け入れられ、彼等の中に溶け込んでいった。 
当時も、先進文化を持った『ガイジン』に対する憧れを持つものは多く、中部吉備の支配層にも、短期間で重用される事となった。  つまり、彼等の首長は吉備の重要人物『吉備冠者』とされたのである。
彼等は現地政権の許可の下、自らの居住地の近辺に、半島での例に倣い自分達の逃込み城を建設した。
後の『鬼の城』のプロトタイプ(原型)である。
ただそれは、より簡素な『砦』というレベルのものであった。
そして、彼等渡来人とその技術を取り込んだ中部吉備は、2〜3代が経過する間に、益々の発展を見せる事となった。

◎吉備地方での確執
その、中部吉備王国がどんどん発展してゆくのを大変な危機感を持って見ていた者がいた。
吉備東部地方に古くから勢力を維持していた、中部吉備のライバル『東部吉備王国』の『上道氏』である。
それまで、同じ民族(倭人系)として協調と競合を繰り返してきていたのが、ここに来て先進の技術や文化を中部吉備が獲得すると、特に製鉄技術の渡来により『武器・武具』が一気に近代化され、このまま放置しておくと自分達が彼等に飲み込まれてしまうという危惧を持って見守っていた。

そして遂に上道氏は断固たる決意を込め、これ以上の中部吉備の勢力拡大を阻止すべく、満を持して彼等に対し戦いを挑んだのである。
勿論、同時にその地を我が物にしようという野心もあった。

しかし当時、彼等吉備地方の各王権同士は様々な婚姻関係を結んでおり、上道氏も当然中部吉備の王室との姻戚関係にあった。
つまり、中部吉備の王室を、あからさまに直接攻撃する訳には行かなかったのだ。
そのため、彼等は別の大義名分を創り出す必要があった。

『中部吉備の王は、渡来人達にたぶらかされ、地元の我々との関係を蔑にしている。
 我々は断固として輸入された風習や風俗を廃し、古よりの伝統を守る覚悟である。
 我々は吉備の国体を護持するため、その元凶たる温羅の一族を討つ!
 中部吉備の王は、直ちに温羅達の保護をやめ、我等と同道して彼らを誅すべきだ。』
という意味のプロパガンダを作成し公布した。
中部吉備王国との直接対決ではなく、渡来人達のみをターゲットにして戦うという形に持って行ったのだ。
勿論、それは単なる名目であったのだが。

そして上道氏は、中部吉備の発展に対して同様の危惧を抱いていた、隣接する四国の讃岐の勢力や山陰の出雲にも、多額の報奨を条件に応援を求め、連合して軍を発した。
上道氏と各国の連合軍は多数の軍船を繰り出し、海路と陸路に別れて進軍し、中部吉備に侵攻した。

主力軍は海路を西進し、この動きに対しこれを事前に察知していた中部吉備側は、吉備の津の正面にあり当時島であった『吉備の中山』の両脇の水道に水軍を配置し、吉備の津への航路を封鎖した。
しばし双方の水軍同士のにらみ合いが続き、その後侵攻軍は吉備の中山の南面の砂浜に上陸し、そこに本陣を構え本土を窺った。
そして次に彼等侵攻軍がとった行動は、吉備の津の西部に張り出している半島にあった中部吉備王国の王墓の地、『楯築』の陵地付近に再上陸し、そこを占領してしまった。  つまり、中部吉備の王家のご先祖を『人質に取った』のである。  合わせ、ここから中部吉備の中枢までは陸続きとなっていた。

祖先崇拝の念の強い当時の人々に対しその行為は大変効果的な手段であり、それを予測していなかった現地軍は、侵攻軍に対し、正面切った対抗が出来なくなってしまった。
次に、侵攻軍の王(吉備津彦)はあらためて楯築を第二の本陣とし、水軍に比べ些か脆弱であった陸軍しか保持していなかった中部吉備の王に対し無言の圧力をかけ、この戦いに際し中立であることを強要した。
あくまで討伐の対象は温羅達渡来人であり、現地の王ではないという大義を強調し、懐柔に務めた。
中部吉備の王は動きを封じられ、温羅と侵攻軍との戦いを傍観するしかない立場におかれた。
そしていよいよ侵攻軍は、渡来人の子孫達に対しその矛先を向け、吉備の津の正面の浜に上陸を開始すべく船団を進めた。

◎温羅との激戦
当初、温羅一党の渡来人達は城に籠城する戦法を取ると思われていた。
しかし地元の王からも見放され、どこからも援軍が期待できない事を知った温羅は、予想に反し、非戦闘員のみを城に残し、主力部隊は積極的に撃って出る作戦を取った。
籠城戦が有効なのは、援軍が期待できる場合か敵方の兵糧が少ない場合であり、このケースの様な時は例え自軍の兵力が少なくても、自らのホームグラウンドでの戦闘でもあり、少しでも勝機のある野戦に持ち込むのが兵法の常として正解であろう。

彼等渡来人の子孫達は少人数ではあったが、武器や武具は全て鉄製の最新式のものを装備しており、首長の温羅を中心に果敢に戦い、当初は上陸してくる侵攻軍と互角に戦闘を繰り広げた。
その主戦場が現在の矢喰宮付近である。  当時はこの辺りまで海岸線が入り込んでおり、海から強襲上陸を図ろうとして弓矢部隊を先頭に立て果敢に攻撃してくる侵攻軍を、温羅の軍は良く食い止めた。
戦闘は、当初の予想を裏切り、温羅軍の奮戦により膠着状態に入るかに見えた。
しかしここで、陸路を経由してきた別動の侵攻軍部隊が到着すると、情勢は一変した。
軍用犬部隊を先頭にした侵攻軍別動隊は、温羅軍の左翼を強襲し、それを切り崩す事に成功した。

戦い不利と見た温羅は、ここで思い切った作戦に出る。
退却すると見せかけて精鋭をまとめ、戦闘域西部の山林に入り、闇夜に紛れ侵攻軍の目を掠めてそのまま南下し、楯築に置かれていた吉備津彦軍の本陣を一挙に突く、云わば捨て身の戦術を取った。
後世、織田信長が行なって成功した『桶狭間』の奇襲戦法である。
彼等は地元の利を生かし、行く先々での人々の手助けもあり、途中までは敵軍に遭遇することなく楯築の地にせまり、敵本陣に夜襲を掛けるべく密かに進軍した。
しかし、本陣の直ぐ近くまで来て、ついに地元民に通報され敵の特殊部隊に発見されてしまった。
吉備津彦軍の近衛兵や特殊部隊の猛攻を受け、温羅の軍は散り散りになり、行く手を阻まれた温羅本人はそのまま近くの岬の方へと逃れるしかなかった。
そしてついに、岬の突端で万策尽きた温羅は、吉備津彦の特殊部隊の手によって討ち取られてしまったのである。
この岬の先端の地が、現在の『鯉喰神社』にあたる。

◎戦後処理と吉備王国の興隆
こうして、温羅を首長とする渡来人の子孫達は吉備津彦の軍門に下る事となり、中部吉備の地は、侵攻軍が占領する事となった。
しかし、中部吉備王国において地元とも共存し人気も高く実力もあり、また技術者集団のリーダーであった温羅を、ずっと晒し首にしたままにしておく訳にも行かず、地元の侵攻軍に対するブーイングにも配慮する必要もあり、その霊の鎮魂と合わせ、渡来人たちの子孫の懐柔の意味も含め、吉備中山の地に、その鎮魂の為の社を建設する事とした。
これが『吉備津神社』の大元の姿であり、現在もその地の(御崎宮)祭神の一柱にその名を残している。

その後、この戦闘に勝利した侵攻軍の主力はそのままこの地に留まり、中部吉備の支配権を現地の王朝から実質的に奪う行動に出る。
誰しも、一度手にした権益は決して手放そうとはしないのが世の常である。
中部吉備王国の王族は、この侵攻軍の駐留の圧力によりこの地の大半を奪われ、その勢力を大きく縮小させ、高梁川西部地域にその拠点を移さざるを得なくなった。
こうして吉備の中心地、吉備の津を中心とした高梁川以東は、侵攻軍の盟主である『大吉備津彦』の支配する所となった。

戦いに勝利した吉備津彦とその子孫は、吉備全域の実質的な覇権を握り、強大な水軍と高いレベルの製鉄技術などを背景として、当時の大和王権とも対等な関係を維持し、大和が河内王朝に換わった後も、雄略朝の頃まで吉備王国の最盛期を迎えることとなるのである。

5世紀前半頃、畿内河内地方に河内王朝の超巨大古墳が築造され、それを目の当たりにした当時の吉備の首長は、その威信保持の為、自分達の巨大な陵墓を自らの地に築いた。
こうして吉備の中央の地に、造山・作山の2基の巨大古墳が生まれたのである。





 吉備津彦命と温羅との推定戦闘図






☆吉備津彦伝説の復元 

V: 吉備津彦伝説の具体的復元

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