◎古代吉備の王墓については、その一部を先項でも紹介しましたが、畿内大和に匹敵する程の大規模なものも幾つかあり、やはり弥生期から古墳期にかけての吉備地方には、大いなる勢力を持ったクニが存在していた事は間違いないと思われます。
ここで紹介した『楯築遺跡』『吉備中山茶臼山古墳』『造山古墳』『作山古墳』の他にも、赤磐市の『両宮山古墳』(5世紀後半)や倉敷市真備の
『箭田大塚』(6世紀後半)など、当時の地方政権の首長の墓としては、他の地域に比し大規模なものが多々存在します。

これらの中で、特に夫々ひとつの時代を代表するものについて、当時の推定される海岸線を念頭に置き、その位置関係を見てみます

 ○楯築墳丘墓 ⇒ 当時の中部瀬戸内海最大の良港『吉備の津』の、湾への入り口の西の半島に位置 (3世紀頃の築造)

 ○中山茶臼山古墳 ⇒ 『吉備の津』への入り口正面の島の山頂付近 (4世紀前半の築造とされている)

 ○造山古墳 ⇒ 『吉備の津』の西岸に突き出た半島を丸ごと古墳に築造? (5世紀前半)

上記のごとく、5世紀中葉までの著名な墳墓は、この『吉備の津』を取り囲むように存在しており、当時の吉備の首長の心理を考えてみますと、
やはり『自分の永眠の地は、吉備の津の見渡せる場所にしたい』と思うのは、海に依る『海人族』系の首長としては当然の想いであったと推定できます。
※造山の後に作られた作山古墳は海に面していなかった模様ですが、5世紀も半ばを過ぎると大和の影響等も大きくなり、また適地も無かった為に、平野部に作られたのであろうと考えられます。

特に、造山古墳については、現在周濠の有無を再度調査中だそうですが、いずれにしても上記の如く、直ぐ傍に海岸線があった筈であり、河内の大仙古墳(伝仁徳陵)が、大阪湾に入る船から大変印象的に望めたであろう如く、吉備の津に入港する船からも造山が間近に見えた事と思われ、吉備王国の実力を誇示できる恰好のモニュメントであったと推定できます。
個人的には、『海人族』の首長の墓として、古墳の周囲の大半は、海水が直接洗っていたと想像したい所です。

2009年3月に岡山大学が行った造山古墳の周濠の有無に関する調査報告が3/21にあり、結果、周濠の痕跡は確認できなかっ
 たとの事でした。そして後円部付近に掘ったトレンチの調査では、海抜2.75m付近に地山(元の地層)が見られたとの事で、やはり当時、
 周辺が海であった可能性が高いという、私説を裏付けるような中間結果が出ております。
 また前方部付近では地山の標高が6.7mと高く、その部分では陸と繋がっていたと考えられ、やはり造山古墳は当時、半島の形をしていた
 事が伺える調査結果となっています。

  後円部付近の周囲は、現在は標高約9m程度の田畑となっており、造山古墳が作られた当時の海岸線は、古墳より少し北に位置する、
 矢食いの宮から赤浜にかけてであったと想定されており、古墳の周囲は、比較的浅い泥質の海底であったと考えるのが妥当と思われます。
 筆者が小学生の頃、夏はよく沙美の海岸(倉敷市玉島黒崎)へ海水浴に行っておりましたが、そこでは大潮の頃、干潮になると、海岸から
 遙か先まで浅瀬がずっと続き、軟泥状の海底を200m以上沖まで歩いて行けた経験がありますが、古墳時代の造山あたりは、そのような
 浅瀬の海であったと考えれば良いのではないでしょうか。
  また矢食いの宮あたりには、『福崎』『浦尾』『大崎』や『岡之鼻』など、海にちなんだ地名も沢山残っており、古代においては、間違いなく
 この辺りまで海であったことの証拠といえるでしょう。
 やはり当時、造山古墳の周囲は直接海水が洗っており、周壕に囲まれた古墳以上に素晴らしい独自の景観を誇っていたと思われます。
   (2009/4/5追記)










☆港の見える丘 − 吉備首長の王墓について −

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