◎岡山の桃太郎伝説について
日本人なら誰もが知っている
『桃太郎』の説話(おとぎ話/昔話)ですが、それに関して、
それがいつどこで誰の手によって具体的に
書かれたかは定かではなく、逆に、ほとんど知られていないのです。
現代に伝わっている形での昔話としての成立は、一般には室町期の末期頃とされているそうです。 (志田義秀氏などの説)
しかし、その大元になった話については、それ以前の何れの文献にも見出せない、といいます。
また先述の通り、この話の原型が、吉備の国の伝説である『吉備津彦命による温羅征伐』を元にしていると言われている事は、諸兄の広く知る所です。
※この、
桃太郎説話=吉備津彦命の温羅退治説を初めて唱えたのは、岡山在住の彫塑・鋳金家であった
難波金之助(1897〜1973) でした。 彼は1930年に
『桃太郎の史実』を著し、その中で、彼のそれまでの様々な研究の成果として発表して全国的にも注目されました。 この年は、岡山において昭和天皇の行幸と陸軍の大演習が挙行され、郷土意識が大変盛り上がった年であり、当時の皇国史観に沿った形で郷土の英雄にスポットライトを当てるのに絶好のタイミングでもあったようです。
難波氏は、記紀の記事や『吉備津神社略記』、そして地元の口頭伝承などから、
全国的に流布している桃太郎の鬼退治説話の原型として、大和政権による吉備地方の征服行為の事実が基となったものであるとする、具体的な説を提示しております。
ただご高承の如く、日本書紀や古事記においては、崇神天皇の代に、『四道将軍の一人として吉備津彦命を任命した』という記録はあるものの、吉備地方に対する侵略や征服といった、当時の具体的軍事行動を示唆するような記事は見あたらず、4世紀から5世紀にかけて、吉備と大和との抗争の事実は格別無かったとするのが一般的な見方ではあります。 吉備地方が大和王権に組み入れられたのは、やはり通常言われているように、雄略天皇の時代、5世紀中盤以降であるとするのが妥当と思われます。
しかしそれはそれとして、彼が着目した
桃太郎のモデルが吉備津彦命であった という説自体には賛同できます。
伝え語りとしての桃太郎説話は、全国的に多様なバリエーションを持ちながら、岡山県を中心として分布している型も厳存しており(特に後掲の『山行き型』はその傾向が強い)難波氏の説を裏付けているとも考えられます。
少なくとも、岡山県一帯に流布されてきた桃太郎説話には、古代吉備に源を発する何らかの史実が含まれていると見て良いと思われるのです。
文書として桃太郎の話が具体的に残っているのは、江戸期享保八年の赤本が最古とされております。
『赤本』というのは、庶民向けの他愛無い話などを収録した、所謂当時の娯楽雑誌の様なものです。
しかしこの赤本は、子供向けの素朴な内容が多く、ストーリーも単純で、中には凄惨残酷なものもあり、余り大人の鑑賞に堪えるものではなかった様です。
そしてその後、安政年間に出版された黄本あたりから大人向けのものも多くなってきて、内容も複雑なものとなって行きました。
江戸後期の戯作者として有名な山東京伝も、桃太郎の話を残しているそうです。
また、地方に伝承として伝えられていた桃太郎説話としては、幾つかのパターンがあり、
中国地方には、岡山県の高梁川流域から備後地方を中心に『山行き型』の説話が主に伝えられておりました。
『山行き型』とは、上記の話の如く、桃太郎の成長期を比較的詳しく述べているもので、
ものぐさな少年としてユーモラスに描かれているのが
特徴です。
それに対し、成長期の話を省略し、すぐ鬼が島に遠征する、一般的に流布されている形のものはストレートに『一般型』あるいは『鬼退治型』と呼ばれ、それとは微妙な対比を見せております。
◎他地域の桃太郎伝説について
○四国 高松市鬼無町 桃太郎神社 高松市HP
元は熊野権現であった。 近くに桃太郎の伝説があり、昭和30年に氏子により桃太郎神社に改名されたそうです。
ここの伝説では、吉備津彦命の弟の
稚武彦命が桃太郎とされております。
稚武彦命は船で讃岐の姉(倭迹迹日百襲姫)を訪問の途中、地元の娘と出会い、その家の婿養子となって讃岐に住んだと伝えられており、そして、鬼無町の東北(鬼門)にある女木島(めぎしま)に住む鬼を退治に行ったとされています。
この女木島は現在『鬼が島』として観光名所となっていますが、ここを鬼が島としたのは、高松市の小学校長をしていた橋本仙太郎氏で、昭和初期から観光地として売り出し、全国的にも有名になっています。
○愛知県犬山市 桃太郎神社 桃太郎公園HP
この神社は、地元の桃山への信仰を麓の地に移し、昭和五年に建立されたとの事です。
祭神は
大神実命で、桃の精霊とされており、イザナギの命が黄泉の国から逃げ帰る時に投げた桃の実に基づく神話が元になったとの事です。
○その他、全国には青森県から沖永良部島まで、様々な地方に桃太郎の伝説は残っている模様です。
◎桃太郎説話の成立について
いずれにしても、こうした昔話や伝説が成立する過程においては、元々はそれぞれ独立した話が、類似性のあるキーワードやストーリーを軸に集約され混成されてゆき、後の世には一方では全く違う話として伝えられ、又一方ではひとつの話の別のバリエーションとして纏められてきたものと思われます。
『鬼(異民族または権力への反抗者)』や『桃(神仙/超自然の力)』あるいは『悪者を懲らしめる(敵対勢力の駆逐)』といった、いわば普遍的なモチーフから、全国で様々な『桃太郎説話』が生まれ、伝えられてきたとも考えられます。
だから、この吉備地方に伝えられてきた『吉備津彦と温羅との戦いの伝説』が、他のモチーフと混じり合って岡山の『桃太郎説話』になり、それと全国の同様の説話とが後世ミックスされて集約されたものが、今に伝わる桃太郎の説話となったと思えるのです。
☆桃太郎説話に登場する三種の動物について
◎犬と雉と猿とは
○桃太郎説話の主人公である桃太郎のモデルは、先述の如く吉備津彦命であり、鬼のモデルは温羅であると見ることが出来ますが、桃太郎の供をした
『犬』『雉』『猿』のモデルについてはそれが具体的に誰なのか(または何であったか)余り知られておらず、幾つかの説もある模様です。
一般に言われている説としては
・
『犬』とされたのは、『犬飼部』の犬飼健(いぬかいたける)に代表される人達の事であるとされているそうです。
その実態は、古代において軍用犬を飼育し、それを駆使する事により伏兵を発見したり敗残兵を狩ったり、白兵戦において敵に噛み付かせたりした実戦部隊であった、といいます。
・
『雉』というのは、『鳥飼部』の留玉臣(とよたまおみ)のグループの事を指し、平時には弓で鳥を捕って暮らしていた『弓矢部隊』の事だそうです。
・そして
『猿』のモデルとなったのは、『猿飼部』の楽楽森彦(ささもりひこ)という人達であったと言われているそうです。
ただこの猿飼部なるものの存在は疑問視されており、楽楽森彦なる人物(群)が何を指しているのかは、現在の所不明なのです。
言葉のイメージから類推すると、さしずめ、事前に敵地に潜入して活動する諜報部隊、或いは遊撃戦を得意とする特殊部隊のようなものであったのかも知れません。
彼等は、実際は『部民』つまり各王権に組み入れられていた組織の一員ではなく、より独立性の強い存在であったのではないでしょうか。
依頼主との契約により報酬を得ることを生業とする『忍者集団』の如きものであり、後世の『山窩』(さんか)にあたる者達の祖先であったかも知れず、その任務が一般の目には留まり難い為、その正体が不明となった、とすれば納得が行きます。
(勿論、実際の『忍者』の発生は戦国期あたりからなのでしょう。 ここで『猿飛忍群』などと書くと劇画の世界になってしまいます (^^ゞ )
この様に、桃太郎=吉備津彦命は、主力軍以外に様々な特殊技能を持った部隊を引き連れていた模様であり、それが事実であったとすると、やはりその軍勢は単体の勢力ではなく、何箇国かの連合軍であった可能性が高くなると思われます。
一地方政権では、バラエティに富んだ様々な能力の部隊を結成し養成する事は、当時としては難しかったと思われるのです。
そして、それだけの下準備を整えた上での侵攻ということは、やはり『国を挙げての総力戦』を遂行したと考えられます。
又、桃太郎説話では
桃太郎は『海路』で鬼退治に赴いたとあり、吉備地方は瀬戸内海の中枢にあり、当然海路交易を得意としていた筈であり、強力な水軍を保持していた事はほぼ確実であると想定できます。
彼等は、陸戦よりむしろ海戦が得意だったのではないでしょうか。
○また他の説では、
桃太郎説話中の三種の動物についての説明として、吉備津彦命は表鬼門である丑寅(東北)に住む鬼を、裏鬼門(西北)に位置する申・酉・戌で退治したとする陰陽学の見地からの見解もあります。 (滝沢馬琴 燕石雑誌 など)