追加覚書@ 2〜3世紀の東アジア情勢と邪馬台国 2007/3/10


☆倭国連合の成立時期と、2〜3世紀の中国情勢との関連性について



 倭国大乱の発生とその収束、女王卑弥呼誕生の時代の考察については、各氏より様々な論が提示されており、最近の発掘考古学の成果などと関連し、当時の状況が次第に明らかにされつつある模様である。
 しかし諸氏の論の中で、後漢末〜三国時代にかけての中国国内の状況と、日本列島内での動向を、より密接にリンクさせて論じているものは現在の所余り見られない。現代の日中関係は一部で歴史認識問題等は存在するものの、年間2000億ドル以上もの貿易額を持つ大変緊密な相互依存関係にあるが、古代の一時期においても、別の意味で日本は、想定されている以上に中国国内の影響を受けていたと推測されるのである。
当時の東アジア情勢とそれに呼応した原日本の動きは、よりシビアに検証する必要があると思われる。

1.倭国連合成立の時期に関しての考察

a.当時の中国国内の状況 − 後漢末の混乱と三国時代の到来
 紀元二世紀に入ると、地球の気候はそれまでの温暖期から一転して寒冷化に移行し、世界各地で諸々の文明がその影響を受け始めたと考えられている。中国国内においても二世紀半ば頃から飢饉が頻発し、後漢の政治機構の制度疲労と相まって社会は混乱し、AD184年に生起した黄巾の乱に代表される大規模な内乱状態に移行していった。合わせて、同様に気候変動の影響を受けた北方の諸民族が南下を開始し、まとまった数で中国国内に侵入し、混乱に拍車をかける結果となった。

 この、全地球的な気候寒冷化がひとつの引き金となったと想定される後漢末の中国国内の大混乱は、軍閥政権の乱立を経て魏/呉/蜀が鼎立した三国志の時代を迎え、AD200年の官渡の戦いやその後の赤壁の戦い等、大規模な戦闘の続く状況となり、大量殺戮や略奪行為が各地で繰り返され、人口もAD157年の統計で5,649万人あったものが、三世紀後半には魏・呉・蜀 3ヶ国合計で767万人と、ピーク時の14%にまで激減、当時の中国は、空前絶後の人口崩壊を起こしていたのである。(講座文明と環境第6巻歴史と気候 吉野正敏・安田喜憲氏) 同時にそれは中国大陸全域で大量の難民が発生していたと想定される時期であった。 そして彼等の一部が大陸から押し出される形で朝鮮半島を経由し、或いはボートピープルとして大陸沿岸部から直接日本列島にも流れ込んでいたと推測されるのである。

b.倭国大乱の勃発と終結の時期、その期間について
 魏志倭人伝には、「桓靈の間倭国大いに乱れ相攻伐し歴年主無し、云々」とあり、後漢後半の時期、桓帝即位のAD146年〜靈帝没の189年の間を中心として倭国大乱があったと記されている。そしてその後、「共に一女子を立て王と為し」女王卑弥呼を立てたとしている。 この文をそのまま解釈すると、倭国大乱の時期を想定した場合、それは2世紀半ばから後半にかけての約40年程度という事となる。
しかし、乱の発生した時期については、中長期の気候変動の流れとも重なり、それに端を発した先述の中国国内の騒乱の時期ともオーバーラップし、二世紀半ば頃よりとして良いと思われるが、乱の収束時期、即ち卑弥呼が即位し倭国連合が成立した時期については、多少疑問の余地が残るのである。
 乱の前半から中盤にかけて、AD150年頃から190年頃にかけての約40年間は確かに倭国内においても相当な戦乱状態にあったと推測されるが、その後の約20年程度、AD190年頃〜210年頃においては、乱は収束の方向にはあったが、倭国「連合」としては未だ成立していなかったと考えられるのである。 後述する内容等から、倭の諸国が大同団結して連合し、卑弥呼を共立した時期は、3世紀初頭の事であったとするのが妥当と思われるのだ。

 そしてその大連合の契機となったのは、やはり後漢末の中国大陸内部の混乱と軍閥政権の乱立、及びそれに対する警戒感が元となったとして良いのではないか。この時期、日本国内においても倭国大乱により同様の混乱状態にあったと想定されるが、中国から朝鮮半島を経由、あるいは南方から船でまとまった数の難民が継続して倭国内に流入し、比較的正確な中国内部の情報をもたらしたと考えられる。そしてそれらの情報により、大乱を生き残った倭各国の首長達は、中国での騒乱の実態をあらためて認識し、その火種が日本列島にも及んでくる事、即ち大陸からの侵攻に対する多大な危機感を持った筈なのである。

 当時の中国の戦闘技術は、その戦術はもとより武器の質、量共に圧倒的であり、未だ鉄の生産などを輸入に頼っていた日本国内とは雲泥の差があり、そのことも当然倭人達は良く知っていた。 また大陸においては当時の日本国内では信じ難い、数万から十数万の規模の軍勢同士の激突が実際に生起していたのである。 AD208年に行なわれた、曹操率いる魏の軍勢15万と、呉/蜀連合軍5〜6万とが激突した「赤壁の戦い」の情報なども、余り間をおかず日本国内にもたらされたと推定される。 この戦いには両軍とも大規模な軍船を多数用意しており、中国の保持していた船舶技術や水軍力も、倭人達の脅威の対象となったと推定されよう。 実際に当時、孫権が東南アジアに使者を遣わしたときの船は、7枚の帆を張り600人から700人の乗員を搭乗させており、彼等は相当大型の外洋航海船も保持していたと考えられている。  ( Captain Fleet HP 三国志の軍船 より )
 中国において、鍛鉄製の武具や工具、釘などが出現するのは戦国時代(BC400年頃)以降であり、この頃にはすでに船舶技術に鉄クギがふんだんに用いられており、大型の構造船が量産されていた模様である。
 これらの生々しい中国国内の戦乱情報に接し、その流れに倭国も巻き込まれるという危機感を当時の倭人達が持ったとしても当然の事なのである。現代の「平和国家日本」に住む我々からは想像し難い事なのかも知れないが、「直接戦乱の被害にあった人達からの生の声」に、直に触れた人間が大変な危惧を抱くのは、至極当然であった。
 
 そして、これら一連の流れの中で大陸からの軍事的脅威に対抗するため、倭国内において大同団結の機運が生まれ、最終的に卑弥呼が女王として推戴された、と考えられるのである。
 この流れで推測した場合、彼女の即位した時期は、大陸で三大勢力が鼎立し、ビッグバトルを繰り広げつつあった時期の、3世紀初頭、AD210年前後であったとするのが正解ではないだろうか。

c.倭国女王卑弥呼の在位と年齢について
 各氏の説の中には、先述の如く倭国大乱の時期を後漢の靈帝の没年頃までとし、それとの関連で卑弥呼の即位をAD190年前後とするものが見受けられる。 しかしそれでは、彼女の寿命と在位年数が当時の状況から考えて余りに長大なものと計算されてしまう事となるのである。 周知の如く、倭人伝は卑弥呼の没年をAD247年としており、その場合、卑弥呼が190年に即位したと仮定した時、彼女の在位期間は57年間と大変長期に亘った事となってしまう。 神話伝承の時代は別とし、後世の各天皇の在位を見ても、近代の明治天皇の45年を抜き、昭和天皇の63年に次ぐものとなってしまう。倭人伝に「年すでに長大」とあったとしても、当時の平均寿命などから計算しても余りに長過ぎはしないだろうか。各氏の研究においても、古代に於ける各天皇や外国王朝の首長の平均在位年数は、10年前後であったという統計結果も提示されているのである。

◎歴代天皇在位ベスト

代数 天皇 在位 西暦 在位年数 備考
1位 124代 昭和 1926年〜1989年 63年
2位 122代 明治 1867年〜1912年 45年
3位 119代 光格 1779年〜1817年 38年
4位 33代 推古 592年〜628年 36年
4位 102代 後花園 1428年〜1464年 36年
4位 103代 後土御門 1464年〜1500年 36年
7位 60代 醍醐 897年〜930年 33年
8位 29代 欽明 539年〜571年 32年 一説に41年間在位
9位 105代 後奈良 1526年〜1557年 31年
10位 100代 後小松 1382年〜1412年 30年


 また、当時の状況から推測して、彼女が女王に推戴されるにあたっては、やはり本人の「シャーマンの能力」に傑出したものがあった、という理由が存在したはずである。つまり「初代」女王が成立するためには、当然彼女にそれなりの「実績」が必要だった筈なのである。単に「倭の有力な王族の血筋のシャーマン」というだけでは皆の合意は得られなかったと思われる。故に、卑弥呼は即位した時には既に巫女として「一流」であったと皆に認められるだけの実績を積んでおり、その為、彼女が即位した時点では、少なくとも20代後半〜30代前半位にはなっていたとすべきであろう。 (後継者の台与は満12歳で即位したとあるが、それは彼女が「二世」だったからであり、初代にはやはりそれなりの実績が必要だったはずである)

 仮に卑弥呼が30歳でAD190年に即位したと仮定した場合、彼女の没年は満87歳ということとなり、現代社会においては珍しい事ではないが、弥生期の当時としては不可能ではないにせよ、余りに高齢というべきではないか。若し彼女の即位をAD210年頃とした場合、その没年は満67歳前後となり、これも平均寿命が30歳台の当時としては相当長生きではあるが、妥当性はとしてはより高くなる筈である。 実年代がある程度正確であるとされている飛鳥〜奈良時代頃の天皇の平均寿命は、54歳前後であったという事実もあり、それらとの関連性からも、弥生後期に生きた女性の寿命としては、長命であったとしても、やはり70歳程度だったとするのが妥当であると見られるのだ。(もちろん、これらの事が「証明」される為には、卑弥呼の遺骸でも発見されなければ不可能な事であり、いずれも推測のレベルでしかない訳であるが、「何れが妥当か」という面から言えば、可能性として蓋然性はより高い筈である)

 結論として、この面からの考察においても、倭国女王卑弥呼の即位と倭国連合の成立時期は3世紀初頭とすることが妥当と思われる。 日本の黎明期における最初の大混乱、「倭国大乱」の期間は、2世紀中葉のAD150年頃から3世紀初頭のAD210年頃までの、大体3世代/約60年程度と考えるのが正解であろう。


2.前門の虎、後門の狼 − 呉の倭国侵略の試みと、魏への接近

 卑弥呼の時代の東アジア情勢をあらためて見てみると、やはり中国国内の騒乱の影響は周辺各地にも相当飛び火していたと考えられる。朝鮮半島北部には黄巾の乱以降、軍閥政権の公孫氏が地方政権を作っており、遼東半島付近にあったその公孫氏と、呉の孫権との海路を経由した交流の事実なども記されている。 また、華陽国志や漢晋春秋、三国志演義等に掲載されている諸葛孔明による「孟獲の七縱七禽」の逸話なども、中国軍閥政権による外縁部に対する徴兵や糧食確保の為の侵略行為を表しており、この時代における中国政権の典型的なスタンスが伺えるのである。

 そして、現在の所余り注目されていないが、忘れてならないのは、呉の孫権が倭国に対して占領と徴兵のための軍を派遣したという事実である。 AD230年、孫権は魏に対抗するための軍備拡張政策の一環として、当時中国の外縁部であった夷州(いしゅう:台湾と想定されている)と亶州(たんしゅう:日本と想定されている)の探索と現地人拉致のために、衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)の二人の将軍と一万の兵を遣わしたと記録にある。 {三国志呉書 呉主伝 (孫権伝)の記述}
 孫権が亶州に軍を遣わした事実の解釈については、その地の呉の後裔達と連携して魏に対抗しようとした意図があったとすることも考えられる。 AD57年、後漢へ朝貢した奴国の使者が『太伯の後裔』と名乗った(『晋書』『梁書』に記述がある)事実があり、この『太伯』とは、春秋時代の呉の始祖のことであり、亶州=倭国の人達は呉の末裔であると当時中国国内では信じられていた。

 夷州(台湾)は長江下流から比較的近くにあり、この遠征は成功し、数千名の現地人を大陸に連行して来たと記されているが、亶州についてはやはりその探索に失敗し、彼等は成果を上げることなく一年後に帰投、それに怒った孫権は二人を誅殺してしまった、とされている。
 実際、当時の記録によると亶州の住人が時々会稽郡にやってきて布などの商売を行ったり、逆に会稽の者が亶州に漂着したという事実もあった模様で、当時認識されていた地理情報としては実際には不正確なものではあったが、中国江南地方と日本列島との往来は、秦代の除福伝説に代表される如く、現実として頻繁に行なわれていたと考えられており、呉の遠征もそういった事実をベースとして計画されたものだった筈であるが、やはり当時の航海技術では、一度に多数の軍勢を搭載した、大挙しての渡海には無理があった模様である。

 しかしこの「呉が亶州に占領のための軍を送った」という事実は、当時大陸から脱出してきたボートピープルや一部の商人達によって、ほとんど遅滞無く倭国にも伝えられたと考えられる訳であり、倭国内に於いては大変な危機感を持ってこの情報は受け止められたと推定されるのである。当時においても日本と中国とは「一衣帯水」であったのだ。

 実はこのことが、AD238年に行なわれた魏の公孫氏討伐時に、間髪を入れずに倭国が魏に対して使節を遣わした事と関連してくると考えられるのである。 公孫氏政権という、中国内における巨大軍事国家(魏)との緩衝材が消失してしまい、魏が直接朝鮮半島北部の経営に乗り出した将にそのタイミングで、当時の「仮想敵国」であった魏に対し、倭の側から先手を打って朝貢の使節を送ったわけである。
 剛は倭国内において連合国家を形成し団結して事に当り、柔は中国の柵封体制に入るという、剛柔両様の構えで当時の倭国の人達は国際情勢の変化に対応したと考えられるのだ。つまり「後門の狼」である呉は、実際に倭国へ軍勢を派遣しておりその侵略の意図は明白であり、それに対応する為に「前門の虎」の魏に対し、敢えて自ら接近した、という図式であり、究極の二者択一の結果であったと想定されるのである。
朝貢してきた倭国の使者に対し、魏が速攻で金印を贈るなど厚遇をしたのは、先述した理由から敵国呉の同族が朝貢してきたと解釈されたからでもあり、世上へのPRにもなる為であったからに他ならない。

 実際のところ魏の側は本気で倭国を攻め取る意思は余り無かった模様ではあるが、ただそれも、現実の状況と、もたらされる倭国の情報次第だった事は想像に難くない。当時の世界は基本的に「何でもあり」の時代であり、現代の「平和ボケ」とは全く無縁の価値観の世界であった。

 その後三世紀半ば以降、魏の国内においては様々な内紛が生起し、最終的に265年に司馬炎によって「禅譲」が行なわれ西晋に取って代わられ、また三国鼎立の時代は魏を継いだ西晋によって呉が280年に滅ぼされて終わりをつげることとなるが、その西晋も八王の乱などのお家騒動や北方からの異民族の侵入などが相次いで弱体化し、中国側にしてもこの時期は人口の激減期でもあり、本気で「外に打って出る」だけの機会も力も持ち得なかったのが現実であったのだが。

※女王卑弥呼の君臨した倭国の実態を「中央集権的な単一国家」とする各氏の説もある。 しかし3世紀の日本列島において、中央集権国家を想定するのはやはり無理があると思われる。文字も殆ど普及していなかったと考えられる当時、体系的な統治システムを設定/維持する事はほとんど不可能なことであり、例え倭人伝の記述に「租賦を収むるに邸閣あり、國國市あり」等と記述されていたとしても、体系的な租税制度などが整備されていたとは考えられないのだ。 日本国内において名実共に中央集権国家が成立するのは、やはり七世紀まで待つ必要があり、それまでは実質的にずっと有力豪族の連合/談合政権であった筈である。 倭人伝にも「今使訳通ずる所三十國」とあり、この記述を殊更違えて取る必要は無いと思われ、当時の倭国の実態は、個々の独立した豪族(藩王)が連合した、「女王卑弥呼を盟主とした連合政権」であったと素直に取るのが正解であろう。

  2007/3/10 追記 2008/6/26 一部修正








inserted by FC2 system