追加覚書B 箸墓古墳について 2007/3/21


☆箸墓古墳について

 箸墓古墳(箸中山古墳)は、奈良県桜井市箸中にある箸中古墳群中最大の古墳であり、最古級の出現期前方後円墳である。
記紀の伝承では孝霊天皇の皇女でシャーマンであった倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)を葬ったものである、としている。
ご高承の如く、邪馬台国畿内説論者に置いては、この古墳こそが倭国女王卑弥呼の墓であるとする説が多く、過去から議論の的となっている。

 この墓の築造年代に関しては、周壕の底から発見された「布留0式土器」などから、従来より3世紀後半から4世紀前半とする説が大半であった。しかし最近、年輪年代学の結果や付近から発掘された土器等の形式などから、築造年代を半世紀以上前倒しし、やはりこれが卑弥呼の墓であり、倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼であった、とする一部の専門家の説があらためて提示されている。 ただ箸墓の築造年代をより古く遡らせる論議は、現在の所大方の納得が得られたものとは言い難く、一般的には未だ仮説のレベルのものであるとされている。

 本説では、孝霊天皇はじめ所謂欠史八代の天皇の系統は、神武=崇神東征以前に大和地方に存在した元の王朝(葛城王朝)であったとしており、倭迹迹日百襲媛命のルーツもそれに連なるものであった可能性もまた大きいと思われる。
 ここで、彼女の名前(忌み名)の「倭迹迹日百襲媛命」について、その名の示すところを素直に紐解いてみる事とする。

 ○「倭」とは、欠史八代の天皇の名に特有の「日本(やまと)」と同義であり、彼女はやはり葛城王朝の血統であったと推定される。

 ○「迹(と)」とは、跡(あと)という意味で、「倭の迹(やまとのと)」つまり、旧葛城王朝の跡、後裔であったと解釈できよう。

 ○「日」とは、「日の祀り」即ち旧葛城王朝の祖神(ニギハヤヒなどの太陽神?)や地元神を祭ることで、「迹日」つまり彼女は征服王朝であった崇神朝から、旧王朝の祭りを継続して執り行う女性として認められた、旧王朝の血筋であったと考えられる。

 ○「襲」とは、「襲う、襲名する」即ち、継ぐ、という意味と解釈され、「百襲媛」つまり諸々を継いだ女性、と考えられる。

 以上を纏めると、「倭迹迹日百襲媛命」とは、「大和の旧王朝の血筋の女性で、崇神朝から現地のそれまでの祀りを継続して行うことを託されて重用された女性シャーマン」であったと解釈する事が出来よう。つまり「名は体を現す」という訳である。

 上古にあっては、征服した側は現地の被征服者の祭祀を絶やしてしまうとそれに祟られ、災害や不幸に見舞われると言う思想(所謂怨霊思想)があり、中国の故事においても、周王朝が、自らが滅ぼした殷王朝の血筋から祭祀者を選んで、殷の祖先の祭りを継続させたという事例などもあり、崇神朝においても同様の事が行われたと推定できるのである。 そしてこのパターンは、出雲の国譲りの伝承などにおいても同様であったと考えられる。

 記紀によると、崇神5年に疫病がはやり多数の人民が死亡し、崇神天皇に依頼されてその原因を占った倭迹迹日百襲媛命に三輪山の大物主神が神懸かりし、「我を祀れば国は治まる」との神託を発した。その為崇神は、その言に従い神の子大田田根子を大神神社の神主にし(ここでも子孫に祖神を祀らせる形)、その結果、やっと大和は平和になった、という伝承が存在している。
 そしてその流れの中で、天皇家は自らの皇祖神である天照大神の御霊を皇居より外に出す事となったのである。(伊勢神宮の由来) やはり彼女の潜在意識は、崇神朝が外から持ってきた天照より、現地に昔からあった大和大国魂神を優先する、という心理が働いたと考えられるのである。 若し彼女が崇神と同系統であり、天照をその祖神に持っていたとしたなら、その様な神託を下す事は無かったとも考えられるのだ。 また伝承では、倭迹迹日百襲媛命はこの大物主神の「神妻」となっている。

 その後倭迹迹日百襲媛命は異常な死に方をする。
当時、霊力の強い人物が異常な死をとげるとそれは大変な怨霊となると信じられており、彼女の死後、その鎮魂のため崇神朝は突貫工事で彼女の墓を作る事となった。 記紀にも「昼は人が作り夜は神が作る」とその様子が記されている。 そしてその時、崇神朝が彼女の墓の参考としたのは、他ならぬ「卑弥呼の塚」ではなかったか。 箸墓築造の時期は、卑弥呼の死から数十年以上後の事であったはずであるが、卑弥呼の塚を作った当時の記憶は未だ鮮明であったと思われる。
 同じ「霊力の強いシャーマンの女性」という前例から、同様の規模のものが作られ、それに大和地方独自の墳丘墓の特徴であった前方部が付加されたものが、箸墓古墳であったのではないか。つまり、彼女の出身の大和地方において古来より存在した方式の弥生墳丘墓(纏向石塚墳丘墓など)の形を、後円部の規模を卑弥呼の「径百余歩(百数十m)の塚」に合わせて拡大したと考えられるのである。
 まさか後世において、一部の専門家によって両名が混同されるとは、当時の誰も考えもしなかった事であろうが。

 大体、「神武東征伝承」を基本的に否定し記紀の記述の大半を後世の創作として扱う、「邪馬台国畿内論者」の人たちが、この箸墓伝承の部分の記述のみを採り上げて、「箸墓の被葬者はシャーマンの女性である」と断定して扱うのは、自己撞着以外の何者でもない筈なのだが。 記紀伝承を否定する立場を取るなら、箸墓の被葬者についても女性と断定せず、(古墳の被葬者は確率的に見て男性が多い筈である)より先入観無く扱うべきなのである。
いくら公式には否定していても、やはり彼等の潜在意識には記紀伝承が刷り込まれており、それがために
 箸墓の被葬者 ⇒ シャーマンの女性 ⇒ 卑弥呼 という短絡が生じたのだ! と言われてもやむを得ぬ事ではないだろうか。


  2007/3/21 追記








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