追加覚書C 大海人考   2007/4/11


☆天武天皇の出自と壬申の乱について


 天武天皇はその名を大海人皇子(おおあまのみこ)と言い、天智帝の没後、壬申の乱という古代日本最大のクーデターにより政権を奪取し、天武天皇として即位した。
従来からこの大海人皇子については歴史上様々な謎が存在し、現在でも幾つかの疑問が提示されている事は周知の通りであろう。

1.天武の崩御年は日本書紀の記述では686年(生年は記述なし)、没年齢は(他の資料によると)65歳とされており、逆算すると生年は622年となるはずである。
そして彼は天智天皇の実弟とされている。しかし、天智の生年は書紀には626年と書かれており、その記録をそのまま解釈すれば、天武は天智の兄となってしまう。
勿論、『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』などの後世の資料などには天智の生年を遡って記しており、整合は取れているとの見方もあるが、他にも様々な矛盾も存在し、現在でも定説は存在しない模様である。

2.壬申の乱において天武は吉野で挙兵し、その後伊賀、伊勢を経由し美濃まで移動、その時点までに様々な豪族が彼の元に参集し、天智の跡を継いで即位した大友皇子軍と戦端を開く頃には、数万もの軍勢に膨れ上がっていた、とされている。
天智政権の中での政治的事跡が全く記されておらず、実権を保持していたか疑問の残る大海人に対し、何故短期間にこれ程の支持が集まったか、その理由が完全には解明されていない。

3.天智は実弟である筈の大海人を大変意識しており、自分の娘を四人も嫁がせている。なぜそこまでして彼を懐柔する必要性必然性があったのかも謎とされている。

4.天武天皇の系統はその後9代続き、48代の称徳天皇崩御後その血筋は途絶え、天皇家は49代光仁天皇以降、大友皇子の系統つまり天智系に復帰する事となる。
 そして天武系9代のうちの過半数5代(4名)が(重祚も含め)女帝なのである。それ以降の天皇家に比し、この時代に女帝が非常に多く排出している事実についてどう説明するのか、納得の行く定説は現在の所存在しない。

大きくは以上の点に纏められよう。

 ここで、筆者なりにその謎について考察してみる事としたい。

 書紀に拠ると大海人皇子の実父は舒明天皇(田村皇子)とされており、また実母は皇極天皇(宝皇女)とされている。
そして彼は天智天皇(中大兄皇子)の実弟(一説には実兄)ということとなっている。この乙巳の変の立役者であった中大兄の両親は実際にこの両天皇であった事は確実と思われる。
しかし大海人については、実母は書紀の記述通り宝皇女であろうが、実父については幾許かの疑問が残るのである。
 宝皇女が舒明天皇と結ばれたのは実は再婚であり、その以前に彼女は用明天皇の孫である高向王(たかむくおう)と結婚しており、彼との間に漢皇子(あやのみこ)という一子を設けていたと記されている。そして(多分、高向王と死別した後)彼女は舒明天皇と再婚したと考えられている。
そして書紀によればその後、中大兄皇子と大海人皇子そして間人皇女の二男一女を生んだ事となっている。
 しかし大和岩雄氏などは、やはり天武は天智の兄とした方が歴史の整合性は取れ、漢皇子こそが天武の事ではないか、という説を唱えておられ、他にも同様の説を提唱している諸氏もいる。ただ、古代日本の皇族の名は、その乳母や支持母体の豪族などの名から採られるケースが多く、漢皇子の支持母体は帰化人達であったとも推測され、即、漢皇子が即天武天皇であったとする事には疑問が残る。

 筆者の仮説

大海人は、実際は漢皇子の兄弟、つまり宝皇女と高向王との間に生まれた子供ではないか。そしてその場合、彼は天智の『同母兄』ということとなり、書紀に記された彼等の推定される生年との整合も取れる事となるのである。漢皇子はその後の歴史に登場しておらず、夭折したとも推測されるが、その兄あるいは弟であった大海人は歴史の桧舞台に登場してくるのである。

天武の支持母体はその名が示す通り『海人族(あまぞく)』達であり、彼はそれを義父の舒明天皇から受け継いだと推測される。舒明天皇の和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)と称し、彼の支持母体は息長氏(おきながし)つまり海人族の中の有力な一派であったと思われるのである。そしてその流れを大海人皇子が引き継いだとすれば納得の行く話である。当時、海人族達の勢力は全国的にも広範囲にわたり一大勢力を保持していた。その流れから、当時の有力な豪族の相当数が大海人を支持しており、彼は朝廷内における海人族達の利益代弁者として隠然たる勢力を確保していたと考えられるのである。

◎天智政権は、当時の政治パラダイムを、有力豪族の合議制から中央集権制に変革させるという時代の要請に基づいて、様々な改革を性急に進めており、同時に外交面でも、同盟国の百済の劣勢により強気の政策を採らざるを得ない状況にあった。そして663年の白村江の戦い以降は、西日本各地に防衛拠点を急ピッチで構築するなど、当時の国内において、相当な摩擦や軋轢が生じていた時期であった。
そしてこの天智の強引な政策の一番の矢面に立たされたのが他ならぬ海人族の豪族達であったのだ。海運や交易を得意とし、水軍も保持していた彼等に対し、朝鮮半島に対して多大な出兵やテコ入れを続けていた天智政権は、過酷な要求と命令を継続して出さざるを得なかったのである。糧食、資材などを海人族達も自ら調達し、また西日本各地から徴兵した軍勢を半島まで輸送させられ、なおかつ白村江の戦いの後は、唐/新羅連合軍の来襲に備えて多数の水城や山城の建設を命じられ、逆に、朝廷から約束されていたであろう多大な報酬は、半島政策の失敗によって殆ど空手形に終り、彼等の不満は頂点に達していた筈なのである。
壬申の乱において天武軍の元へ海人族の豪族たちが続々と集結し、大友軍を打ち破ったのは、そういった時代背景もあった訳なのだ。

 以上の如く当時の時代の流れを考察してみると、様々な事項が整合性を持って理解できよう。

では何故、書紀に『天武は天智の弟』と記述されたのか? この疑問に関しては、日本書紀を編纂したのが、当の天武政権であったという事実から推測できるのである。
 日本書紀の編纂を天武より命ぜられそれを実行したのは天武の実子の『舎人親王』なのだ。恐らく彼は、書紀のアウトラインについて父の天武とと綿密な打ち合わせを行っていたと推測される。つまり、壬申の乱の扱いについて、それを『簒奪』でなく当時の中国思想の『禅譲のコンセプト』に合致させるべく『兄から弟に政権が移譲された』という形に創り上げるよう、直接本人から指示されたと考えられ、舎人親王は父親の言を受けて、その流れに沿って事実関係を調整して記述した、と思われる。
 しかし同時に彼は、息子として父親の生年を偽って記述する事はやはり出来ず、天武の年齢についての疑問が後世残ることを承知の上で、敢えて生年を記さず崩御の年のみ記した訳である。編集責任者本人が、自分の父親についての記述の『矛盾や脱落に気付かなかった』事は絶対に有り得ないのだ。このあたりのことは心理学の範疇になろうが、舎人親王の心理も含めて検証してみるべきであろう。
彼は、実父の指示の通りに天智の実弟として書紀に記述し、同時に父の年齢については封印したのである。天智の生年や没年が記されている日本書紀に、何故天武の生年が記述されなかったのか、編者の『都合』以外には有り得ないのである。

 以上の仮説を元にした場合、所謂『天武朝』は、系統的に見て『父系』よりも『母系』が強かった事となる。大王家の血筋ではあったが、実母は天皇、そして実父は天皇の三世の孫と言う事となるのである。そして実はこのことが天武朝九代のうち五代が女帝であった事とも関連してくると思われる。つまり彼等は当初から男女の区別を敢えて余り厳格に明示しなかったのだ。 天武本人は母方の血筋が主であり、なおかつ弥生人以来の母系的要素の強い海人族を支持母体とする天武朝ならではの現象であったわけである。
757年に施行された養老律令中にある『皇兄弟子条』などが男女の区別を余り明確にしていないのは、実はその為なのである。
日本の歴史において『万世一系の男系』が殊更強調され始めたのは、天皇家の血筋が天武系から天智系に戻った桓武帝以降の事なのだ。そしてその事は、天武系に王権を一時『簒奪』された天智朝からの強烈なアンチテーゼであったとも考えられるのである。





  2007/4/11 記








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