追加覚書D 国譲りの舞台となった『出雲』のエリア   2007/10/20



 記紀の記述において、出雲の大国主の一族は話し合いにより天孫族に降ったとされており、その出雲の国のエリアは、現在の島根県東半分に該当する。
確かに、出雲の国譲りの行なわれた舞台は、様々な伝説の残る出雲市の近辺であったとする事が正解と思われる。

 この出雲市近辺は確かに弥生後期の有力な遺跡の宝庫である。ここには、出雲大社を始め、西谷墳丘墓群(出雲市大津町)や、加茂岩倉遺跡(雲南市加茂町)、荒神谷遺跡(簸川郡斐川町)などが存在していることは周知の事実である。
全国最大規模の銅剣や銅鐸など、弥生後期の多数の青銅製品の出土した加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡、そして小さな谷の周囲の小高い丘陵上に27基以上もの弥生期以降の墳墓群が連なる西谷墳丘墓群には6基の『四隅突出型墳丘墓』と呼ばれるAD2世紀頃の特異な弥生墳丘墓が存在する。そして西谷9号墳と呼ばれる最大のものは、墳丘の全長は60mにも達する。
確かにここは出雲の国譲り伝説の舞台となった地に相応しい地域である。

 しかしこの出雲市近辺を中心とした出雲西部と、旧『意宇郡(おうぐん)』や現在の松江市を中心とした出雲東部は、少しその歴史の流れが違うように思われる。
過去、律令下において出雲地方を実質的に支配し出雲国造と意宇郡郡司を兼帯していた出雲国造家(出雲氏)が本拠としたのは出雲国東部の意宇郡であった。この出雲国造家の発祥の地は意宇郡と言われており、出雲大社と同時に熊野大社(出雲一の宮 ⇒ 島根県八束郡八雲村)における祭祀も行っていた。
この東部出雲の地には、安来市荒島丘陵周辺に荒島墳墓群や仲仙寺墳墓群と呼ばれる四隅突出型墳丘墓も存在するが、この地を特色付けているのはむしろその後の時代の大和式の古墳の存在であり、出雲地方の主要な古墳は、その大半が松江市付近に集中している。そしてこのことは、その地の有力者が古墳時代において『大和』の政権に組み込まれたことを意味していると捉えることができよう。

 これらの事実から、出雲の地は全域が一度に天孫族に降ったのではなく、国譲りの対象となったエリアは、出雲市近辺の、西部出雲であった、とすべきであろう。
国譲りがなされた時点において、東部出雲はまた別の首長の支配下にあり、その地が天孫族(大和政権)に服属したのは、国譲りよりも1世紀以上経ってから、とした方が筋道は通ると思われる。
つまり古墳期になってから大和政権に服属し出雲全体の支配を任されたのが出雲国造(出雲氏)であり、出雲風土記も彼等の手によって編纂されたと考えられるのである。

 この流れで考えるならば、『出雲の国譲り』イベントに登場する時点の天孫族は、やはり九州地方(若しくは朝鮮半島)にその版図が存在していたこととなろう。東部出雲より先に西部が国譲りを行なったという事は、地政学的に見ても天孫族は、大和地方など『東の勢力』ではなく、『西の勢力』であったという事になるのである。

2007/10/20 記








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