追加覚書E 弥生時代の始まりについて 2008/ 6/25


☆その時期について


 従来は、遺物等の年代測定の結果などから、大体紀元前500年頃がその開始時期とされてきたが、近年になってこれまでのC14測定法の誤差などが明らかとなり、それを修正した新たな年代に書き換えられつつあるという。また様々な新技術−AMS法(加速器質量分析法)などによるそれらの再測定結果により、弥生時代の開始時期が一挙に紀元前1千年頃までに遡るとする説が有力となっており、弥生期の始まりは一気に500年程遡る可能性が出てきている。
しかし一方、その余波で、これまで弥生初期のものとされてきた、福岡県の曲がり田遺跡や熊本県の斎藤山遺跡から出土した『鉄器』についての時代的整合性が問題となってきているという。
これらの鉄器がBC1000年頃のものとした場合、中国での鉄器の普及がBC500年頃からであり、それより500年も早く日本に鉄器が存在していたこととなり、日本の鉄器文化は中国から伝わったとされてきたこれまでの定説が瓦解してしまうこととなり、異論が出てくるのは当然であろう。

 そして一部でこの様な矛盾も抱えつつも、様々な計測手法の進歩によって、全国から出土した様々な遺物のより正確な年代が徐々に明らかになってきており、この日本列島には従来の説よりも相当早くから弥生人達が渡来してきていたと、次第に考えられる様になってきている。


☆弥生時代が始まった原因は?

 しかしこれら昨今の諸説を見てみても、日本列島で弥生時代が始まった『時期』に関しての論争は種々目に付くが、『なぜ縄文から弥生に移行したか?』という『原因』にまで具体的に踏み込んで論考してあるものにはあまりお目にかかっていない。

 勿論、弥生時代が始まったのは
1.大陸からある程度まとまった数の人間の集団が日本列島に移り住み、定住を始めた。当初その地域は北部九州を中心としていた。
2.その人達は温帯ジャポニカ米による『水稲耕作技術』を持ち込み、日本列島に農業革命を生起させ、水稲農耕による食料生産に基礎を置いた本格的な農耕社会の誕生を見た。
3.彼等は同時に大陸から様々な文化、特に進んだ金属精錬技術など持参し、それが『弥生文化』となった
4.水稲稲作による食料の安定確保と増産により、彼等渡来人の人口は徐々に増加し、原住の縄文人達と融合しつつ、次第に優位に立ち、列島内における民族的組成に変化をもたらした。

つまり、日本列島内における民族組成の変化と金属器時代への移行、ならびに実質的な農業革命が弥生期への移行の要因とされている。
要するに、弥生期が始まったのは『大陸からのまとまった移住』がその原因とされるのである。 故に、その主原因は『大陸』側にあり『日本列島』側にはなかったという事になる。

 では何故この時期に大陸からの移住が行われたか?という疑問が生ずるのは当然であるが、その事について現在までにいくつかの仮説が提示されてはいるが、きちんと系統立て且つ核心を突いたと思われるものは、何故か今の所余り見受けられないのである。


☆筆者の仮説として

 その原因を大陸に求めた場合、中国の社会変動と連動した動きの一環であると理解する事は容易いであろう。ここで簡単にそれを紐解いてみることとしたい。
国立歴史民族博物館HPより、弥生時代の開始年代についてのグラフを引用してみる。

        

       国立歴史民族博物館 ホームページ  2003.7.25. 歴博特別講演会配布資料
       - AMS年代測定法の現状と可能性 -  弥生時代の開始年代 より


○従来の年代区分−弥生期の始まりをBC500年頃とする説では、中国は春秋時代にあたり、この時代に生起した最も該当すると考えられる事件としては、BC473年に呉が越によって滅んだという史実が存在し、この呉の遺民がその航海術を駆使し大挙して日本列島に渡り、それが弥生期の始まりとなったという説も幾つか存在している。
 そのなかには、より具体的に呉の末裔が日本列島に渡海して、古代において『安曇族』と称した『海人族』の一派となり、福岡市の志賀島を拠点として広く活動し、彼らが建てた国こそが、倭人伝などに名が記されている『奴国』の事であるとする説もある。(亀山勝 『安曇族』 郁朋社 2004年)
 また、DNA多型分析の手法で日本人のルーツを探る研究においても、長江流域の人々の一派が日本列島に渡海してきて弥生人の祖先となった痕跡が発見されたとしており(『DNAでたどる日本人10万年の旅』崎谷満 昭和堂 2008年)それによると、日本人の中のY染色体の『O2b』という分類に属する人達が該当するとの事であり、遺伝学的な手法からもこの流れは裏付けられつつある模様である。

○AMS法などによる新区分に基づいて弥生期の始まりをBC1000年頃に置いた場合、中国では『周』が『商(殷)』に取って代わったのがBC1072年頃とされており、ちょうど周王朝の開始期と重なることとなる。
 この商の遺民達の一部は東に逃れて朝鮮半島北部に移り住み、『箕子朝鮮(きしちょうせん)』を建国したとされている。中国の史記の記述に、『朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広めた』とある。(また三国志魏志書、魏略逸文などにも箕子朝鮮に関する記述が存在する。)
現在の所、箕子朝鮮の成立と存在は考古学的には未だ実証されておらず伝説の域を出ていないとの事であるが、可能性としては十分考え得ることである。
 そして若しこれが史実若しくはそれに基づいたものであったとした場合、その一派、あるいはその影響によりそれまで朝鮮半島中北部に居住していた人達が、押し出される形で半島を南下し日本列島にまで渡来した、ということが想定されるのである。歴史の『玉突き現象』は、ゲルマン民族の大移動の如く、古今東西にあまたその事例が存在しているのだ。
 そして彼等のもたらした水稲については、日本の稲(温帯ジャポニカ)の大部分を占める三種類のDNA変異型(RM1-a,b,cに分類されている)のうち、朝鮮半島にも多く存在しているRM1-a型がそれに該当すると考えて良いと思われる。
※佐藤洋一郎氏によると、この3種のうちRM1-b型については朝鮮半島には存在せず、直接華南より日本列島にもたらされた可能性が高いという。このRM1-aが先述の朝鮮半島経由での伝播と考えれば、それぞれの時代に、別々のコースでの稲の伝播の実態が浮かび上がってくる。
 ただ、この時期にある程度まとまった数の人間が大陸から移住して来て水稲耕作を始めたとしても、日本列島内には、それに先立って『プレ弥生期』とでも言うべき、陸稲稲作(それは主として焼畑農業として行われた筈である)を中心とした農耕社会が、『縄文人』達によって一部の地域で出現していた可能性もまた見て取れるのである。


 要するに、中国大陸における何らかのレボリューションの余波が日本列島に及んで、日本国内で弥生時代が始まったと考えられる訳であり、弥生期を考察する大前提として、世界史−特に東アジア史全体の中で考察することが先ず必要である筈なのである。
 縄文晩期から弥生期にかけて大陸から日本列島に移り住んだ人達は、当然ひとつの波だけではなく、『日本』という国が具体的に形成される以前には、何派にもわたってまとまった移住が行われてきたはずなのである。日本列島は、古代においては何らかの事情で大陸を追われた人達にとっての『安住の地』であったとも考えられるのだ。


☆より具体的な私説として、大陸からの移住の流れについて述べるとするなら

 第一の波BC千年頃にあり、それは主として朝鮮半島を経由して行われた。彼らはRM1-a型の温帯ジャポニカ米を携えて来て定住してゆき、原住の縄文人たちとも概して平和裏に混交していったと考えられる。彼等は日本列島内で小規模な水田を営んだ。 この時期の大陸からの人の移動は比較的小規模であったと考えられ、数百名からせいぜい1000〜2000名程度であったとするのが妥当であろう。そしてその移住地域についても、当初はせいぜい北九州から中国地方西部にかけての範囲が主であったが、その後人口増により少しづつその居住範囲を広げていったと思われる。 最初に東北地方まで伝わった水稲の遺伝子がRM1-aであったのは、この第一波の影響であると考えられよう。
 また彼等は、中央アジアから沿海州付近に伝えられたばかりの、当時の最新技術の成果である『鉄器』を日本列島にもたらした。 沿海州地域の鉄器時代の始まりは、BC9世紀以前に遡るとするロシア考古学会の見解があり、最近もバラバシ遺跡などそれを裏付ける(示唆する)発見がなされている。 (『ロシア沿海地方の歴史』ロシア科学アカデミー極東支部編纂/村上昌敬訳 2003/6 等を参照) 最初に日本に伝えられた鉄器が、メイド・イン・チャイナでなければならないと考える必要は全く無いのである。
そしてその後も彼等は、朝鮮半島東部海岸沿いに日本海ルートを使って沿海州から継続的に鉄器を輸入することとなる。 このルートは、有史以前から成立していた交易ルートであり、彼等の日本列島への移住も、概略はこのコースを通って行われたとするのが妥当であろう。
 当時日本列島に移住してきた人々のルーツは、先述の箕子朝鮮成立以前に現地に居住していた、一部で水稲稲作を導入していた『粛慎(しゅくしん)』と呼ばれていた人々の一派であると想定できよう。 彼等は、朝鮮半島中北部から中国東北部そしてプリモーリエ(沿海州)にかけて居住していたツングース系の人々であり、Y染色体DNA多型分析の分類でいうと『C3』のハプログループが当て嵌まると思われる。(ずっと古く樺太方面から移住してきたC3グループとは別の流れと考えられる)
勿論、彼等が営んだ農業は、典型的な『水田での水稲農耕』というものではなく、陸稲も含めた様々な作物を雑多に作る『雑駁農耕』であったのであろう。
(現在の所、朝鮮半島において早期の水稲耕作の遺跡などは余り発見されていない模様であるが、遼東半島対岸の山東半島では早くから水稲耕作が普及しており、それが遅滞無く半島西部にも伝えられていた可能性は高いと思われ、今後の北朝鮮地域の新たな発掘調査により、それが明らかになるかもしれない。)
※日本列島における最古の陸稲栽培の痕跡は、岡山県岡山市の朝寝鼻貝塚や同市灘崎町の彦崎貝塚から、6000年前の陸稲のプラントオパールが見つかっており(資料の信憑性について一部では異論もある)、実際はずっと以前より小規模な稲の伝播があったと考えられ、縄文期においても一部(特に西日本一帯)では早くから農耕も行われていた模様である。

 第二の波は、BC500年頃を中心として呉の滅亡の時期に、東シナ海を直渡して相当まとまった規模で移住が行われた。彼等はRM1-b型の水稲を直接持参し、日本列島で本格的に温帯ジャポニカ米の生産を始めた。
中国の史書『晋書』や魚豢(ぎょかん)の撰した『魏略』には、倭人に関しての記述中に『その旧語を聞くに、自ら太伯(たいはく)の後という』と記されている事などからも、BC473年の呉の滅亡以降、その遺民などがエクソダスしてきた先の有力な一つであったと見ることができよう。少なくとも当時の倭国の人達は、自分達のルーツは揚子江近辺にあったという認識を持っていたのである。
 当時、日本列島においては沖積平野は余り発達しておらず、また技術力や労働力、農機具などにも限りがあり、当初は山地沿いの沢に沿った水源の近くの水の豊かな所に棚田を作り、安定した米作を行ったと考えられる。(先述 亀山氏の説)
 彼等、長江下流域からの移住者のY染色体DNAハプログループは、崎谷満氏などの説の通り『O2b』タイプの人達であったとして良いと思われる。
そしてかれらは日本に『青銅器』の精錬技術をもたらした。 つまり日本列島においては、鉄器の方が青銅器よりも数百年も早く渡来していたこととなるのである。

 第三の波として、BC3世紀、秦始皇帝により中国統一が行われた時期に、徐福の二度にわたる渡航を中心として、ふたたび大陸中南部より大規模なエクソダスが敢行され、当時最新の技術や農作物等を伝えることとなり、日本列島の開発は加速してゆくこととなる。魏志倭人伝などに見られる『倭人』の風物は、主としてこの時期に彼らによって伝えられた、華中〜華南の文化に基づくものであると考えられる。 そして彼等もまた『O2b』タイプが主流の人達であったと考えてよいと思われる。

 その後人口も次第に増大し、また灌漑技術も進歩した段階で、弥生中期末から後期にかけて大々的な平野部の開拓が進められ、北九州の筑後平野等を中心として農地が大いに拡大し、比例して人口も急増した。当時の世界気候は比較的温暖な時期にあたり、水稲耕作に適した日本列島において、人口は二世紀中葉頃までその最初の極大期を迎えることとなるのである。
 以上の流れであったと考えられる。

※一部の説に、まとまった数の人達が大陸から日本列島に移動してきた要因として、過去ユーラシア大陸において生起した気候変動、特に気候が寒冷化した時期に北方から南に移住してきた『環境難民』であったとするものもあるが、時期的にも格別整合しているとは思えず、また華中〜華南からの移住は、気候の変動が主因とは考えられない。
(確かに、BC1300年頃からBC600年頃にかけては縄文後期寒冷期にあたり、比較的寒冷な時期ではあったが、当時の中国や朝鮮半島においても格別な人口崩壊などは生起していない)
 勿論、中国国内における社会の変動についても気候の変動と密接に関連がある事はまた当然である。 よってその主原因が那辺にあったとしても、日本列島における縄文から弥生への移行については、上記の如く中国の歴史と密接に連動していると見て良いと思われる。


 2008年10月21日 追記






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