追加覚書F 孫権の倭国遠征はなぜ失敗したか   2008/ 6/28



 先項にも述べたが、AD230年に行われた孫権の夷洲(台湾)と亶州(日本)への渡航遠征について、それが台湾への侵攻が成功した後、なぜ倭国攻略に失敗したかについて、もう少しつっこんで考察してみたい。 この孫権軍の遠征は、弥生期の日本を考える上で、もっと注目されてしかるべき事項であるはずなのであり、当時の倭国に全く影響がなかったとも言い切れないと思う故にである。

 三国志呉主伝にはこう記されている。
「(黄竜二年)春正月、将軍衛温、諸葛直を遣わして甲士万人を将い、海に浮びて夷洲及び亶州を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老伝えて言う、秦の始皇帝は方士の徐福を遣わし、童男童女数千人を将いて海に入り、蓬莱神仙及び仙薬を求めしむ。此の洲に止まりて還らず、世々相承けて数万家有り。
其の上の人民、時に会稽に至りて布を貨うこと有り。会稽東県の人、海に行き、亦だ風に遭い流移して亶州に至る者有り、と」(季刊邪馬台国98号 加藤哲也氏『徐福伝説を往く』より抜粋)

 倭国に取り幸いなことに、この比較的大掛かりな遠征は失敗に終わったと記されている。
しかし良く考えてみると、古くは紀元前5世紀頃より大規模な移住がこの地から日本列島に向けて行われていた訳であり、華中〜華南の人達にとって海路で日本に行く事はさほど困難ではなかったはずである。
先述した如く、呉(春秋時代の呉)の遺民や、徐福の船団なども然程困難なく渡海したはずなのであるが、なぜ孫権の軍船は日本列島を探し当てることができなかったのであろうか。

 これを解く鍵は3つあるように思われる。
ひとつは、彼等二人の将軍が船出した時期が問題だと考えられる。
首記の如く、2月頃に遠征を開始した場合、先ず夷洲を攻略しそれには成功したと書かれてあり、その場合、帰着は夏頃となった筈である。そして間を置かず亶州に進発する場合でも、少なくとも数千人の兵士などの兵糧を確保する必要もあり、その時期は現地の米の収穫を待ってのことだと考えられる。当時は三国が相交伐する戦乱の世であり、兵糧の確保も『いっぱいいっぱい』で行われていた筈なのである。
そうした場合、当然亶州へ向けての発軍は9月初旬〜下旬にかけて行われたこととなる。(現地は亜熱帯であり米の収穫は8月下旬〜9月にかけて行われる)
つまり、台風シーズンのど真ん中の出航となり、当然彼等の、少なくとも十数隻の船団が大嵐に遭遇した確率は大変高くなる訳である。彼等は嵐に巻き込まれ、這々の体で逃げ帰ったと考えられる。

 二つ目彼等が『軍隊』だった故の失敗であったと考えられる。
当時の中国では、戦国時代からすでに『指南車』などに見られる如く、『磁石』が実用化されており、比較的正確な方位測定が可能であった。そしてそのことがかえって仇になったと思われるのだ。
会稽あたりから日本列島に向かう場合、通常であれば、東に向かって船を進めれば、黒潮の流れに乗って意識せずとも北上し、結果として比較的容易に目的地に辿りつける事となる。つまり亶州に行くには『東に向けて船を進めればよい』という話になる訳である。
その情報を元に二人の将軍が、磁石を使って誤差を修正しながら『正確に東を目指した』とすれば、当然『そこには何もない』事になる。つまり磁石などという最新の機器を持っていたがために、かえって遠征に失敗する結果になったのである。
何事にも合理的判断を優先し杓子定規に行動する軍隊と、アバウトで結果オーライの民間との考え方の差による齟齬があったと考えられるのだ。

 そして三番目としては、やはりこの遠征が中国の現地の人達の賛同を得たものではなかったという事も大きな要因と考えられよう。軍閥政権の強圧的な態度と強制、苛斂誅求によって当然民間人は相当な圧迫を受け続けていた訳であり、またこの遠征はその地の商人達の利害に関わることでもあったはずで、彼らの中で進んでこの遠征に協力する者は殆どおらず、満足な水先案内人の確保も出来ないままの出航であったと思われる。

 以上の要因により、孫権の野望は失敗に終わった考えられるのである。
若しこの時点で彼等が日本列島に来襲したと仮定した場合、当然、倭国連合と干戈を交える事となった筈であり、原初日本に大変な被害をもたらしたであろう事は想像に難くない。
我々のご先祖様にとり、呉軍が日本列島に辿りつけなかった事は、大きな僥倖であったと言えるのである。


     三国時代の中国において考えられていた倭国(亶州)の位置情報
    

 この位置情報を元にして会稽郡(現在の江蘇省南部・浙江省・福建省付近)あたりから真東に向けて船出した場合、西南諸島を通り越して太平洋に出る事となる。








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