追加覚書G 天皇の親征と神功皇后の実在について   2008/ 7/ 2



 記紀を紐解いてみると各天皇の様々な事跡が記されており、その中の一部の記事に『天皇の親征』(天皇自身が自ら軍を率いて出征する事)について記されている箇所が存在している。
大和王権の確立期において、天皇自ら遠征事業に携わった事例であるが、それがどのような位置づけであったのか、ここで簡単に検証してみることとしたい。

日本書紀の記述より、古代における歴代の天皇の事跡について、以下にその一部を項目別に纏めてみた。
  (緻密な検証は行っておらず、ざっと読み通した結果であり、一部間違いがあるかもしれません)
    

 上記、日本書紀よりの記述から、幾つかのことが読み解けよう。

☆こうして整理してみると、古代史において、実際には天皇の『親征』は基本的には殆ど行われなかった稀有の事象であったという事が解る。
 天武天皇までの40代中、親征を行ったという記述がある天皇は3名であるが、その内容を個々に見てゆくとその全てが事実に基づいたものであるとは思えないのである。

景行天皇の熊襲討伐は、古事記には全くその記述がなく日本書紀にのみ詳細に記されており、日本武尊による地方征服事業のモチーフと似通っており、同時代に行われた熊襲勢力に対する征服行為を、書記の編集者が景行天皇の事跡としたとも考えられ、天皇自身による親征が実際に行われたかについては疑問が残るわけであり、現状、大方の論者においても同様の見解を取っている。
 しかし一方、景行親征が行われたとされる現地九州において、景行天皇に纏わる幾多の史跡や伝承が残されていることもまた事実であり、記紀の一方に全く記述がないから全て虚構であると即断することも慎まねばなるまい。

仲哀天皇による同様の熊襲討伐については、この天皇自体の実在性に疑問がある訳であり、このときの『天皇親征』については、やはり後世の意図的な創作であったとした方が妥当と思われる。

◎古代における、天皇による親征のほぼ確実な事例としては、齊明天皇による半島出兵のための北九州への行幸が挙げられよう。この時期の国際情勢と照らし合わせてみても、これは事実であったとすることが出来ると考えられる。

 以上から、地方征服や反乱鎮圧を行う場合の基本的な手法としては、天皇自身は都から動かず、有力な皇族や豪族を司令官に任命して事に当たらしめるパターンであったと考えられ、これは洋の東西を問わず、元首としての一般的な対応であると言えよう。 プロの軍人でない元首自らが軍の指揮を執るよりも、軍事の専門家に委任したほうがより合理的である事は当然の話である。 王朝の存亡に関わるなどの余程の事情がない限り、元首自らの親征は、世界史においても稀有のことなのである。
 その後の歴史を見ても、現代までの天皇家のうち、実際の『天皇による親征』を行ったのは、上記の天皇のほかには、明治天皇(官軍の江戸進撃を詔勅により親征として行った)のみである筈だ。(他に、南北朝時代において後醍醐天皇や南朝の各天皇も実質的な親征を行ったと言えるかもしれないが。)

☆また、天皇の親征が稀有な事象である以上に、『皇后の親征』については、神功皇后の三韓征伐以外には全くその事例もなく、まさに日本史上空前絶後の出来事なのである。(齊明天皇は女性であるが『天皇』として親征した) 勿論、稀有なことだからといって、それが全て後世の創作であると決め付ける必要は全くないが。
 神功皇后はその親征において、軍略家としてよりもむしろ『巫女』的な能力を発揮して軍を纏め導いている。当時の軍勢にはその作戦遂行の是非などを占う巫女が必ず従軍しており、その吉凶の占いにより軍の行動が大きく左右されていた時代なのである。(折口信夫氏『最古日本の女性生活の根柢』等を参考)
 このことから、神功皇后は皇后として天皇とともに親征したのではなく、巫女として従軍していたと考える向きもあるかもしれない。 しかしいずれにしても彼女が十分な統率力を発揮し、一軍を纏めて母子で東遷し大和の軍勢を打ち破るだけの実力と自軍を心服させ得る何らかの正当性を持っていたであろう事は事実であり、単なる従軍巫女ではそれは不可能だったはずなのである。 以上のことなどから、記紀のこの段には、やはり何らかの事実を置き換えるために、相当な創作と脚色がなされている事は確実と思われる。

☆しかし一方、神功皇后についての具体的な伝承や伝説についても、北九州一帯を中心に実際に広く分布しており(『季刊邪馬台国』97〜98号を参照)、それらのすべてを全くの架空の創作であると即断する事もまた早計であるように思われるのだ。

 もちろん、神功皇后の存在自体を疑問視する説も根強く存在しており、これらの伝承は全て何らかの他の民間伝承が転化したものだとするものも多い事は事実である。

 『このような神功皇后伝説は、北部九州から瀬戸内海ぞいに広く分布している。神功皇后は「神の子を産む聖母」として、息子の応神天皇とともに母子信仰と強く結びついている。単に聖王たる応神天皇の母としてのみでなく、ひろく民間における母子信仰として一般に浸透していることは見逃せない。それが濃厚な伝承の分布を支えている一因なのかもしれない。

神功皇后伝説は、皇后を英雄的人物として描くが、その内容にはおとぎ話的要素も強く窺われる。塚口義信氏は、宮廷で語られていた朝鮮半島南部平定の伝承(ただし願望的要素が強い)に、民間で語られてきた海の母神と御子神の信仰から生まれたオオタラシヒメの伝承、さらに息長氏が伝えた伝承など3種類の伝承が組み合わされて物語ができ、それが潤色・変改されて記紀に定着したものとする。(ヤマト王権の謎をとく、1993年、学生社)』
(前田正夫氏のエッセイ『神功皇后伝説を検証する(3)』より )

 などの見方もあり、『徐福渡来伝承』などと同様に、他の類似したモチーフの伝承が神功皇后伝承に集約されていったものも多々存在するであろうことも大いに考えられよう。

 しかし先述の如くこの神功皇后に纏わる伝承はその大半が北九州に集中しており、あとは瀬戸内海一帯や神戸市東部などにもいくつか存在しているが、逆に山陰地方や帰還後の大和地方にはその伝承の地が殆ど見受けられないのである。神功皇后は敦賀から日本海側を西進して北九州に上陸したと記されており、そのルート沿いなど、もっと各地に伝承が残っていてもよさそうなものなのだが、全国あるいは西日本一帯に伝承がくまなく残されている訳ではないのだ。 国内での彼女の活躍の足跡は、主に『北九州』と『瀬戸内海沿岸』に記されている。

 本説で述べた如く、これは彼女が北九州出身であり、その後半島に渡った後日本列島に帰還し、旧倭国の勢力を引き連れて大和に東征した、と考えた方が辻褄が合うように思える。 つまり大和から西への『往きのルート』上には伝承が残っておらず、『還りのルート』上には伝承が多いとみられるのはその為ではないだろうか。

 応神朝は過去実際に存在し、その始祖である応神天皇の実在はほぼ確実とされており、故にその応神天皇(誉田別尊)の母親(生物学上の母親)の存在もまた確実なはずである。 若し応神自身が一軍を統率し大和を制圧した征服者であったとするなら、わざわざ神功皇后という母親や仲哀天皇を記紀が『創作する』必要はないわけであり、『母親が幼子を連れて東征した』という、複雑な話にはならなかった筈なのだ。 なぜ誉田別尊が主人公ではなく、そのお母さんが東征の主役であったか、それが『事実に基づいたもの』であったために他ならないのではないか。

 要するに、『記紀の創作度合い』をどの程度に見るかということであるが、記紀制作の主題に沿った創作や脚色は多々行われたと想定されようが、そのなかにおいても父祖から伝えられてきた伝承については、極力素直な形で残そうと努力したと考えるのが正解と思われるのである。
 筆者としては、記紀に記された神功皇后のモデルとなった女性は、記紀編者の創作であり実際にはいなかったとするより、実在したと考えた方が、納得性が高いように思えるのだが、如何であろうか



☆欠史八代の天皇の事跡について
 また同表をご覧になって明らかな如く、『欠史八代の天皇』はその事跡から見ても大和盆地から一歩も外に出た記録がない。 また崇神以降頻繁に記述に登場する朝鮮半島に関しての記事も皆無であり、やはり『地方区』の王様達であったと思われ、九州から東征して来た人達とは違う別系統の現地大和の王朝であった可能性が高いことがこの図からも読み取れよう。

 仮に欠史八代の天皇が実在したという立場をとる場合、なぜこの8名の天皇方が
◎日本列島各地への征服事業を何故ずっと行わなかったのか
◎なぜ大和盆地の外へ一歩も行幸されなかったのか
◎倭人伝の時代以前から頻繁に行われていたはずの大陸(朝鮮半島)との交流が全く記されていないないのはなぜなのか

等について、納得の行く説明が必要ではないだろうか。 勿論『たまたま伝承が全く伝わっていないだけ』という見方もあるやも知れないが、崇神天皇以降の記録レベルと余りに格差があり、そのギャップが何故生じたのかを論理的に明確にすべきであろう。



☆景行天皇親征の史実の是非について
 先述の如く、(景行天皇自身の実在も含め)現在の定説としては否定的な見解が多い訳であるが、かといってその具体的な確証が存在する訳ではなく、また現地の伝承等を一方的に全否定することも早計であろう。
それらを前提として、ここでこの『景行天皇親征の必然性とその意義』について簡単に考察してみたい。

1.景行天皇にとっては、ご先祖様が出征した地へ『故郷に錦を飾る』行為となった筈である。
神武=崇神とした場合、景行天皇にとってはその祖父の故郷である九州地方に凱旋した事となる。
 勿論実際のところは、『大和の大王こそが日本列島の覇者』であるというメッセージを込めた北九州倭国連合の豪族達に対する示威行為であった訳である。 大和に東征して力をつけ、全国制覇事業も概略成功し、その圧倒的な軍事力を動員しての堂々の帰還/親征を行うことにより、旧倭国の豪族達にとっては、この時点で『彼等の盟主は大和の大王』であることが確定したのである。 天皇として初の親征は、多分に政治的なデモンストレーション行為でもあったと考えて良いと思われる。

2.彼等にとって過去からの最大の懸案事項の一つであった『狗奴国』との抗争において、最終的な決着を付ける戦いでもあった筈である。
邪馬台国の時代からずっと紛争状態にあり制圧できていなかった狗奴国=熊襲に対し、この時点で最後の征服戦を行ったと考えられよう。
 景行天皇は西都市都於郡町(とのこおりまち)に『高屋宮』を置き(黒貫(くろぬき)寺に伝承が残る)、(宮崎市の高屋神社という説もある)書記の記述によるとそこに6年間滞在したとある。当時の狗奴国のエリアを鹿児島県一帯から宮崎県南部にかけてと想定した場合、軍事的見地からもこの地は対狗奴国戦における最前線に近い位置にあたり、その地に大本営を置く事には必然性があると思われる。 また書記には熊襲との余り大規模な合戦は記されていないが、実際には相当な規模での戦闘が行われたことも十分に考えられる。

 以上の考察から、景行天皇による熊襲征討伝承については、現地にもあまたその遺蹟が残されており、また少なくともその政治的/軍事的な必然性は十分にあったと想定され、何らかの理由で古事記には記述されなかったものの、概略は事実に沿ったものであるとしても良いのではないか。
景行天皇は創業者(崇神)一族の三代目にあたり、後世の徳川家光同様、心理学的に見ても何らかの派手なパフォーマンスを行いたい立場にあったとも考えられ、その家臣団等に対する示威行為として、自らが先頭に立って熊襲征伐を行ったと思われるのである。


2008/8/18 追記






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