追加覚書H 邪馬台国所在地の逆説的証明   2016/11/1



 なぜ21世紀になっても、邪馬台国の遺構が発見されないのか?

 現在、倭人伝に記述された日本黎明期のクニ『邪馬台国』について、古くは江戸期よりその存在の是非と、存在した場所などについて、様々な仮説や見解が登場してきた。
その諸説については、ご承知の如く大きくは北九州説と機内説とに別けられており、そしてその論者も、考古学や歴史の専門家から一般のアマチュアにまで多岐に亘り、一部のマスコミをも巻き込んで、いわば百花繚乱の状態にある。

 しかし、これだけ科学が発達し、全国各地から、縄文から弥生期にかけての様々な遺跡や遺構が発見され、次々と日の目を見てきている中で、なぜか、ここが邪馬台国の首都だ!という、決定的な遺構が発見されていないのは、諸氏良くご存じの所である。

 邪馬台国の遺構として、確定的な証拠として挙げられる必須事項として
1.大規模環濠集落であること
  『邪馬台国』という固有名詞は日本側のものでなく、古代中国の史書『三国志魏書東夷伝倭人の条』に書かれていたものであり、弥生期の日本にあった大規模環濠集落に極めて良く合致した記述がその中にあり、『高楼』『望閣』『環濠』『逆茂木』などが遺構中に見られる事。
2.少なくとも数千人規模の人口を包含できる遺構である事。
  倭国連合の都としての規模を想定した場合、倭人伝に記載されている倭諸国の人口から類推して、数千人以上が居住していたとすべき。

 少なくとも、上記2点を満たす必要がある。
現在、畿内説で想定されている『女王卑弥呼の都』として、巻向遺跡を比定しているものも多いが、巻向の場合、2項は満たせても、到底、1項を満たす事は出来ない。 よって、当時の畿内地方に大人口を抱えた弥生メガロポリスが存在していたとしても、それは倭人伝に記された『邪馬台国』ではあり得ないのである。 (一部のマスコミでは、女王卑弥呼の都であった『とも言われている』と、意図的に穿った書き方をしているものもあるが)

 また、環濠集落の典型として、佐賀県の『吉野ヶ里遺跡』があり、一部ではここが『邪馬台国』であったとする説もある。 しかし遺構としては倭人伝の記述と良く合致してはいるが、人口規模としては、最盛期でも1200〜1300人程度であった模様であり、ここも規模の面から邪馬台国の都としては当てはまらない。


 では冒頭に立ち戻って、なぜ21世紀の現代になっても『邪馬台国』の遺構が発見されないのか、という事であるが、これは『逆説的に証明できる』のである。

 江戸期からある言葉だが、『板東太郎、筑紫次郎、四国三郎』という言葉を聞いた事はないだろうか?
板東太郎とは利根川、筑紫次郎は筑後川、四国三郎とは四国を流れる吉野川を指す。
当時の人が考えていた日本三大河川? ではない。
答えは『日本三大暴れ川』なのである。
我が国は古来より天災の多い国であり、平素は穏やかな流れを見せている河川も、ひとたび大雨等になると全く違った様相を呈し、今に至っても人々の生活に牙をむく存在となる事はご承知の通りである。
治水技術の進んでいなかった江戸期以前において、特にこれらの三河川は、名うての治水の困難な川であった。
そして、今回注目すべきは、この日本第二位の暴れ川『筑後川』なのである。

 筑後川河川事務所ホームページによると
『明治以前の洪水として残されている一番古い洪水は、大同元年(806年)で、「太宰府管内で水害と干ばつにより田園が荒廃し、筑後の国1ヵ年田租を免ぜられる」とあります。さらに天正元年(1573年)から明治22年(1889年)至る316年の間に183回の洪水記録があります。
 このように平均2年に満たない期間に1回の割合いで洪水があり、享保・宝暦の強訴、天明の暴動など、農民の怒りが爆発したことも数度。それはいつも水害による不作と堤防構築などの不満から起こったもので、いかに筑後川の洪水に悩まされていたかを物語っています。
 そもそも筑後川で洪水が起きやすい原因として、筑後川上流地域やその支流の上流地域は、降った雨水が土中にあまり浸透しない地質であることや、上流の河床が急勾配であるのに対して、中下流の勾配が極めて緩く、洪水が筑紫平野に氾濫する傾向にあることが挙げられます。(上流の流速は時速20キロメートルであるのに対して下流は時速4キロメートル強とバランスがとれていません。)』

とあり、過去から2年に一度以上の洪水が継続して起きていた地域であったのだ。

 で、若しこの地に邪馬台国があったとしたらどうか?
勿論、弥生期においても洪水は発生していたと考えられ、筑後川本流の直ぐ近くに街を作る事は考え難い。しかし本流から少し離れた、現在の朝倉市付近にそれがあったと仮定した場合、特に卑弥呼の治世(3世紀初頭〜前半)は奇跡的に天候の穏やかな時期が続いた模様であり、古墳寒冷期突入前夜の穏やかな時期に、肥沃なこの地に環濠集落が発展した可能性は非常に高いのである。
 環境歴史学・年縞学の草分けである安田喜憲氏によると 『邪馬台国は寒冷期の中のつかの間の小温暖期に発展した女王国だった。』(気候変動の文明史P134) ともある。
2世紀中盤より世界は寒冷期に突入した事が明らかとなっており、その気候変動により引き起こされた倭国大乱の後、数十年程度の小康期が訪れ、その時期に即位した卑弥呼の元で、邪馬台国は倭国の中心として発展していたのである。

 しかし3世紀中盤以降、気候は再び寒冷化して洪水が多発し、その後の度重なる水害によって大環濠集落『邪馬台国』の遺構は跡形もなく流されてしまい、また堆積した土砂によって地中深く埋まってしまい、その痕跡を発見するのが大変困難となったと考えられるのである。
 若し邪馬台国の遺構が畿内にあったとしたら、せいぜい5mも掘れば見つかるものが、筑後川流域の如くの洪水頻発地においては、10m掘っても出てこない事となる。
将来、より高性能な土中レーダーなどの機器が開発されない限り、数百回もの洪水に洗われた遺構の発見は大変困難と思われる。

 また、邪馬台国がこの水害の頻発する地にあったが故に、台与女王以降、その後の日本の歴史において、明確な形で邪馬台国が登場する事がなかったと考えられよう。度重なる水害のダメージにより、邪馬台国は次第に衰退していったと思われる。そして邪馬台国東遷説を採る諸説もある(筆者はその立場は取っていない)が、それら諸説において『なぜ東遷せねばならなかったのか』の明確な理由が殆どの場合示されていない。しかし、その最大要因として、大規模水害頻発による集団移住としても考えられるのである。

 筑後川の名は、江戸期になって幕府の命により定められたとの事で、それ以前は、『一夜川』『千歳川』などと呼ばれており、沃野が一夜にして荒野に変わってしまう様を表したとされている。
以前筆者は数度、筑後川流域を旅した事があった。 何度か自家用車で巡った後、ローカル鉄道の甘木線で旅してみて、現在の実り豊かな沃野が、一旦水害に見舞われた場合、一夜にして茫漠たる原野と化す事を想像してみた。 若しこの地近辺に邪馬台国があった場合、その痕跡を見いだす事は、やはり極めて困難である、との感慨を持ったものである。


 結論として、若し倭国女王卑弥呼の住まいした都が、邪馬台国論争の中での有力な候補地である福岡県朝倉市甘木付近にあったと仮定するなら、上記の理由によりその遺構は必然的に『洪水に流されて消失』してしまい、それが為に、未だに倭国の首都として相応しい、『大規模弥生環濠集落 邪馬台国の都』の遺構が見つからないのである。


2017年8月 補記

先日の九州豪雨により被害に遭われた方々に対し、心からのお見舞いを申し上げます。

新聞等によると、福岡県は九州豪雨による県内の被害総額が1197億円に上るとの概算結果を明らかにした。
今回の豪雨での人的被害については、福岡と大分の両県で35人以上が犠牲となったとの事です。

大災害をもたらした豪雨の原因として、気象学において『線状降水帯』の発生が挙げられている。 これは、線上に伸びた地域に積乱雲が次々と発生して強雨をもたらし、その規模は幅20〜50キロメートル、長さ50〜300キロメートルに及ぶとの事である。
そしてこれは数時間に亘って猛烈な雨を降らせ続け、一昨年に発生した東日本豪雨や広島土砂災害の原因ともなった。

この朝倉市域は、福岡・佐賀県境にまたがる標高800m〜1000m程度の山々が連なる『脊振山系』の西側から斜面に沿って上昇気流が生まれ、積乱雲が発達し線状降水帯が発生するという地理的条件が存在するそうであり、ある気象条件の下においては、必然的に線状降水帯が次々と形成され、朝倉市や大分県日田市などに大雨をもたらすこととなる、という。

考えてみると、この地理的条件については、現代も弥生期においても同様であり、今回の大水害により、はからずも卑弥呼後の時代において、邪馬台国がどうなったか、そしてなぜ今もってその遺構が見つからないのか、という謎に対し、一つの示唆を与えている気がしてならないのである。






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