第一章 : 現代社会の諸問題  


第一章 : 現代社会の諸問題

☆現代人類社会における諸問題について
21世紀を迎え、過去二度の世界大戦やイデオロギー対立、核戦争の危機、またいくつもの新型病原体の発生等、前世紀までの幾多の課題を何とか乗り切ってきた人類社会であるが、現在においても地球温暖化や人口爆発等、今後の社会の発展を決定的に阻害する可能性のある様々な問題が、正に山積み状態に存在している。 そしてこれらの諸問題に対しては、世界の様々な科学者、政治家や思想家などが様々な形で示唆や予測、警告を行なってきてはいるが、これら諸課題の解消の糸口は中々見つかっていないのが現状である。
この章においては、これら現代社会の諸課題を簡潔に纏めて俯瞰してみることとしたい。

☆現代社会における具体的諸問題
ここで、人類の現代社会が直面している諸々の課題について、その要素ごとに簡単に纏めてみることとする。
具体的には
1.過去のつけ
  米の赤字、日本の国債残高、中国のバブル、他
2.地球環境に関する問題 ⇒ 人類の生活圏の確保と維持
  (ア)地球温暖化
  (イ)人類の諸活動に伴う環境破壊 ⇒ 化学物質、熱、生物、他による環境の汚染
  (ウ)生物種の絶滅の加速
3.国家間の “南北問題”
  豊かな先進国と貧しい開発途上国との軋轢、格差拡大
  一部の国や企業による資源の収奪
4.宗教問題
  キリスト教とイスラム教の対立の構図
  一神教原理主義者/過激派の存在と活動活性化
  パレスチナ問題
5.人口問題
  (ア)開発途上国での人口爆発
  (イ)アンバランス化 ⇒ 特に開発途上国での人口増と、先進国における少子高齢化問題
  (ウ)食糧問題 ⇒ 食料の偏在と開発途上国での慢性的食料不足
  難民の発生と常態化、移住におけるトラブル、受入国の民族主義との軋轢
6.資源問題
  資源の枯渇 ⇒ 炭素資源、レアメタル等
  有効活用思想(3R) ⇒ 『もったいない!』思想の普及
7.エネルギー問題
  化石燃料への偏重とその枯渇、環境への過負荷
  クリーンエネルギー開発の遅れとコスト高 ⇒ 風力、波力、太陽光、地熱、等
  原子力(核分裂炉)開発の中断、社会的コンセンサス獲得への注力不足
  核融合エネルギー開発の遅れ
  省エネルギー技術の転移
8.その他
  『社会規範』と『社会理念』の喪失 ⇒ イデオロギー闘争終結後における共通の価値基準の喪失
  全世界的な過度の資本の集中とそれにともなう社会格差の拡大、強者と弱者の顕在化
  軍事力の一極集中と、国際調整力の弱体化

等々、上記の諸問題のそれぞれが相互に関連しあって顕在化しており、一見すると、それらを個々に解きほぐしてゆく事は殆ど不可能に思える程である。

上記のごとく、現実の我々の未来には、過去からの様々な“人類の放漫経営のつけ”が重くのしかかってきているのである。以下、個々の課題について簡単に考察してみることとしたい。

1.過去のつけ
 21世紀初頭の2007年現在、世界の経済動向としては比較的堅調に推移しており、バブル崩壊以降長期にわたり不調であった日本経済も一見すると安定成長路線に戻っており、またアメリカ経済においても、先行きに不安はあるものの底堅く推移している。そして中国やインド、また他の開発途上国の経済成長の伸びも堅調である。
 しかし、特に日本やアメリカなどこれまで世界経済を牽引してきた国々の財務状況は、過去より様々な形で指摘されている如く、一面では危機的状況にあり、大変危険な要素を含んでいる事もまた事実なのである。

◎現在の日本の財務状態について
 日本のGDP 500兆円(2005年 東大山本良一氏) に対して
 日本の赤字 国債発行残高 670兆円 + 他借入金 + 地方債等 計 約1000兆円以上 (2006年度)
 これを2007年現在、破綻自治体の典型として話題に上ることの多い『夕張市』の事例と比較してみると
 ○日本全体の借入金額 1000兆円、人口1億3000万人 ⇒ @769万円
 ○夕張市の財政赤字額 600億円、人口約13000人 ⇒ @462万円
つまり日本全体の借金は、夕張市の実に1.7倍!にのぼる。 しかし何故日本は倒産しないのか?簡単に言えば、夕張市との違いは信用(国としての信用と、国や国民が保有する含み資産などによる)と、そして『お札を刷れる輪転機』を国が持っているからに他ならない。 しかし別の面からの朝日新聞による試算によると、日本政府の債務超過額は 283兆円 にのぼっており、財政状態は既に太平洋戦争末期に匹敵する『敗戦状態』にある、という。(2007/4/20 朝刊)
かつて19世紀初頭のイギリスでは、国民所得に数倍する国債の発行残高を抱えていたが、その後の産業革命の進展に伴なう活発な民間投資と経済成長、緊縮財政策などにより徐々にその比率は低下し、経済破綻の危機は社会の発展とともに自然に回避されたという事例もあり、また1990年代のアメリカにおいても、IT革命の進展により、慢性化していた『双子の赤字』を一時的に黒字化したという事例もある。
 一部においては、日本の個人金融資産は1201兆円あり(1999年現在、日銀発表)、国家としてそこまでの借金は大丈夫であるという、全く根拠の無い意図的且つ無責任な楽観論なども過去にあったが、今後の日本社会の推移において、上記の米英の如き危機的状況の自然解消や僥倖を望むのは、愚か以外の何者でもない。

◎アメリカの財政赤字の、世界への“垂れ流し”について
 クリントン政権下において、緊縮財政とIT景気により一時黒字化した米国の財政であるが、その後ITバブルが崩壊し、ブッシュ政権下での軍事拡大路線によってそれは再び悪化傾向にある。 ただ米国予算教書を見ると、最近の経済の好調を繁栄して財政赤字は減少傾向にあり、2006年度の財政赤字は前年比22%減の2,480億ドルとなり、5年連続の赤字ではあるがその額は大幅に減少したとしている。ただ同年度の累積赤字額は84,513億ドルとなっている。2008年度の財政赤字は2,390億ドルとなる見通しとしており、経済の好調をバックに2012年までに財政均衡を達成するとしている。
しかしアメリカ国内においても、会計制度の基準に対しては様々な見解があり、実質の2006年度の赤字は、政府発表の2倍近い4500億ドルになるとする試算もある。そしてこれまでのアメリカの財政赤字の合計残高は、8兆ドルどころではなく55兆ドルにのぼるという指摘も一部には存在するのである。
 現在の米国の強みは、自国通貨が国際基軸通貨である事とあわせ、日本や中国など対米貿易黒字国の貿易構造が、米国の『過剰消費』に依存していることにあり、そしてその構造は前世紀からずっと続いており、必然的にアメリカはドルを垂れ流し、他国はそれを溜め込んできたのである。今後その流れはいつまで保つのだろうか。
現在の日本の対米債権が、長期累積債権を含むと300〜400兆円にのぼるといわれる状況から見て、日米のどちらかがコケたら双方共倒れどころか、世界中が同時に大パニックとなる事は必定とされている。同時に、中国の外貨準備高も活発な貿易の結果最近急増、1兆ドルを突破しており、実質的にこれら各国は経済的に“一蓮托生”となっているのである。
 これらの動きは、昨今のサブプライムローン問題に見られる如く、米国内の債権を証券化し世界の機関投資家が投資対象の一部として購入しており、本来は単なる米国国内問題が世界に飛び火している現状にも端的に現れている。この不良債権の総額は 1兆3000億ドル(2006年末時点)程度とは言え、『一事が万事』というが如く、他にも同様なリスクが存在する事は明らかであろう。今の世界金融システムには眼に見えない様々な危険が潜んでいる。何時爆発するかもわからない『爆弾』を抱えているのは、テロリスト達だけではない模様である。

◎チャイナバブルの今後について
一方では、年率10%以上(2006年度10.7%)もの成長を遂げている中国において、成長率の高さとその継続により中国国内では様々な形で“チャイナバブル”が発生しており、同時に地域的な不均衡により著しい格差拡大が生起している。また公害問題の深刻化や政治/社会システムの未熟による腐敗の進行など、民衆の不満が非常に蓄積している事は周知の事実である。 現共産党政権は、これらの国内矛盾や民衆の圧力をうまく処理し、将来に向けて軟着陸させることが出来るのか、国際的にも影響が大きいだけに、大変危惧されるところである。 今後の流れの中で、一つの山場である“北京オリンピック”後において中国国内で一気に問題が噴出する事となる可能性も様々なメディアで指摘されている。

 これらの危惧に対し、何れの国の政府も具体的な解決策やその“落とし所”を提示できずにいる。 国家の放漫経営による莫大な過去のつけは、『いつか、誰かが、どうにかして』払わなければならないのである。皆が黙って大人しくしていれば、過ぎ去ってゆくものでは決して無いはずなのだ。
 かつて太平洋戦争終結後、日本国内はハイパーインフレとなり、第二次世界大戦中に国が発行していた『戦時国債(戦争国債)』が紙切れ同然となり、空襲による都市部の被害と合わせて日本国民の相当数が経済的破綻に陥ったのは、つい60年ほど前の事である。 やむを得ぬ事とは言え意図的な通貨の供給過剰などによって、それまでの日本国民の金銭財産を、当時の政府は一方的に切り捨てたのである。 このことはそれ以前、第一次大戦後のドイツなども同様の推移であり、統治機構の一時的崩壊とそれに起因する貨幣価値の暴落と混乱は、その国家を構成する国民の財を大幅に減衰させる事となった。
これらと同様のハイパーインフレを、現在の各国政府は意図的に起こそうとしている或いは『期待している』のであろうか? 一方で、インフレーションのもたらす効果としては負債価額の実質的低下という一面もあり、貨幣価値が下落すればそれだけ実質的な返済の負担も低減するのである。 現代社会は、1929年のアメリカに端を発した“大恐慌”の反省から、様々なセィフティネット等も整備されてきてはいる。 しかし当時とは比較にならぬほど世界は相互に密接な繋がりを持っており、その影響は瞬時に全世界に波及する事となるのである。現代の金融システムのレベルで、過去の大恐慌の轍に対しては十分の余裕を持って回避できるというのだろうか。若し世界の基軸国といわれる、日、米、欧、中、ロの何れかが当事者として何らかの通貨危機が生起した場合、1997年7月に生起した“アジア通貨危機”どころではない世界規模の大混乱が生起する事は必定と思われるのだが。過去の『ブラックマンデー』の危機が再来する可能性はどの程度なのであろうか。
はたして世界経済はどの程度『ドミノ倒し』に耐えられる構造となっているのか?そして若し仮にそれが生起するとした場合、どの国の誰が最初の一枚を倒すことになるのか? よしんばそれが意図的でなくとも、何らかの不可抗力の原因(天災、戦争、大規模テロ、大企業の倒産、一部政府のデフォルト(債務履行不能)等)により、それがコントロール不可能な情報としてネット社会のスピードで世界に波及していった場合、その連鎖を食い止める手立ては存在するのであろうか?
これらの危機が生起する可能性について、どの国の政府もどの専門家も具体的なシナリオとして提示してはいないが(或いは示す事が出来ないのか)、皆、世界の政治と経済がこのまま推移し、『過去のつけ』が、ついには大した問題なく軟着陸すると思っているのであろうか。 起きてはいけない事が起こってしまってからでは遅すぎるのである。 つけは、やはり『いつか、誰かが、どうにかして』払わなければならないのである。

ただ本説は、ここでいたずらに危機感をあおったり悲観的に事を論ずるのが主目的ではない。余り遠くない将来のいつか、人類社会は何らかの形 − それはやはりハイパーインフレーションなどの形を取るかも知れない − いままでのツケを支払う事となり、我々は自らの政府や為政者の無能無策、無責任さに憤慨し、一部の大企業やファンドなどの身勝手さにあきれる事となるやもしれないが、人類社会全体を『種』という大きな枠組みの中の流れとして見た場合、これらのことは、長い人間の歴史の中においては『ひとつの小さな躓き』でしかないのである。 勿論、実際の当事者である我々自身にとってそれは大問題であるのだが。


2.地球環境に関する諸問題
 2006年に65億人に達したとされる人類は、言うまでもなく地球全体の環境について多大な責任を負っている。  地球環境の維持と保全について、基本的には、『自分達が過去の祖先から受け継いできたものを、極力滅失あるいは変質させずに次の世代に引き継いでゆくための行為』であるとする事が出来よう。 この考えは、現在具体的に『サステナビリティ(Sustainability)』という用語で定義されている。 これは持続可能性(じぞくかのうせい)と和訳されており、人類文明が持続して存続する可能性を確保する為に、如何に行動するかを検証する思想である。特に人類文明の諸活動が、将来にわたっても持続できるかどうかを表す概念で、経済や社会など人間活動全般に用いられるが、特に環境問題やエネルギー問題について使用されている。 そしてこれを具体的にあらわした持続可能性実現のための基本的な考えとしては『ハーマン・デーリーの3原則』が挙げられる。

 ハーマン・デーリーの3原則
☆ハーマン・デーリーの3原則
社会に於ける資源利用と廃棄物の排出に関する三つの原則
  デーリーの三角形

○HDI(人間開発指数)をより高く
○EFをより低くすること
○共に高くても共に低くても、持続可能な社会とはならない

※見方としては有意義であるが、技術革新等を加味して考えるべき 

 (サステナブル・ソノマ・カウンティーのHPより RSBSが抜粋)


※サステナビリティの定義とは、『将来世代のニーズを損なうことなく、現在の世代のニーズを満たす開発』つまり『持続可能な開発』を指す。
より具体的には、『世代間責任』をその基本概念に置き
 ○地球規模での貧富の格差をなくすために社会・経済開発を進める必要があること
 ○その社会経済開発は、将来世代の可能性を脅かしてはならないこと         とされている。
そして、サステナビリティ実現の為には、『発展』が不可欠である。
サステナビリティを確保しつつ社会的な有意な発展の方策を模索すべきであり、故にこの思想はシュリンク思想ではないのである。
 (サステナビリティの科学的基礎に関する調査プロジェクト(RSBS)の報告書2006 より抜粋)

 人類社会の活動による影響により地球環境が悪化し、人類社会のサステナビリティの実現性が不確実となっている。その原因の主たるものは、(資源枯渇問題は別として)CO2の増加による地球全体の温暖化とされている。しかし、それに対する反論も数多くあり、人類トータルのコンセンサスを得る為にも早急な、より詳細な科学的分析が必要である。そしてその分野も、気候の変動に関してだけでなく、その『気候リスク対策に対する経済的分析』や、南北問題等、国際的なギャップ、格差への具体対応も含めた総合的な分析が必要である。現在、IPCCなどの政府間機構や各国の機関において、この問題に対し様々な分析が行なわれているがこれらをより大きな見地から統合した全世界的な分析を行なうことが急務である。
一部の国の態度にある如く、『確実な論証が行なわれなければ何もしない』では、全てにおいて手遅れとなろう。『不確実な状況証拠でも、その可能性があれば早急に具体的に手を打ち始める』姿勢こそが、人類全体のリスクマネジメントであり、将来世代に対する我々の責務である。『ゆでガエル』の寓話を持ち出すまでも無く、より敏感なリスクに対するセンサーを持つべきである。
2007年5月に行なわれたIPCC第26回総会第4次評価報告において、地球温暖化は『人間の諸活動に起因する』と正式に結論付けられたのである。

◎サステナビリティ・レポート(サステナビリティの科学的基礎に関する調査報告書 2005年10月 RSBS事務局編)について
このレポートにおいてはサステナビリティの扱う時間軸を50年とし、ここでは持続して存在、成長が可能な社会システムの構築に向けた具体的な取り組みとして主に、人間の考え方の変革を促している。 人類が産業革命以降、継続して持ち続けてきた『無限拡大発展志向』から脱却し、『循環型社会』の構築を目指すよう提言している。(サステナビリティの科学的基礎に関する調査) それを実現させるためには、人間の倫理観を再度見直し整理する必要があるとしており、そのポイントとして、内藤正明氏の分類では 1.南北間の倫理(空間的) 2.世代間の倫理(時間的) 3.生物間の倫理(生命種的) を挙げている

 上記のサステナビリティ思想の流れに沿って、ここで環境問題について具体的に考察してみる事としたい。

(ア)地球温暖化について
 本来、日本語においては『地球温暖化』ではなく『地球灼熱化』とでも表記すべきではないか。表現の違いで受ける印象と影響は大きく違い、『温暖』という表現はもともとは良い意味で使用され、もたらす危機感は全く違ったニュアンスになってしまっている。
この温暖化問題については、世界各地でその影響が深刻化しており、最近特にクローズアップされてきている。テレビのドキュメンタリー番組等にも度々取り上げられてきており、国際的にも関心が高まっている。 1972年に発信されたローマクラブレポート『成長の限界』以来、地球環境の限界と人類の『地球の使い過ぎ』への反省は、次第に認識されてきてはいる。 しかし、2006年に発効する筈であった『京都議定書』への署名を、現在最もエネルギーを浪費しているアメリカが『科学的根拠の不確かさ』を理由に拒否し、また、世界一の人口を抱え、経済成長著しい中国等が規制の対象外となっている事もあり、総論では地球環境問題への取り組みを是としてはいても、全世界が各論まで確実にコンセンサスを得る事は、至難の業となっている。 しかし、自然は待った無しに人類に対してその活動の結果を提示しており、2005年秋に米国南部を襲った『ハリケーンカトリーヌ』の如く、強烈な形で即、跳ね返ってきているのである。 このままで推移すると、現在の推定では2100年までに地球の平均気温は2.6℃〜6.8℃程度増加するとも試算されている。
※企業寄りの政策を取る米共和党政権であるが、同じ米国内からそれに対する様々な批判の動きもあり、州政府や各自治体などが、独自により厳しいCO2削減策を打ち出してきており、少しづつ米国の対応も変化しつつある。
しかし、現実の温暖化はもっと深刻である、という説も多々存在するのである。

◎気候ジャンプ説
現在の、人間活動による地球温暖化を予測した説の大半は、今後21世紀中に徐々に気候が上昇してゆく、と試算しており、温暖化に対する諸々の警告や対策なども、その線に沿って立てられている。しかし実際の地球の気候は、現在予測されている様に徐々に変化するのではなく、過去の事例の分析結果によると、『突発的に変化するのが常である』という説が注目されてきている。すなわち、急激な気候変動(Abrupt Climate Change)説である。
実際、過去の地球の歴史の中で、気候のジャンプ現象は何度も生起しており、グリーンランドの氷床のボーリング結果から、一説では地球上では過去10万年間に、25回の気候ジャンプがあったとされている。 そして多いときは1500年に一度の頻度で生起したとされているのである。 (9万年に22回の説も存在する)
その直近の例としては、今から12900年前から11500年前に起こった『ヤンガードリアス期』と呼ばれる、ヨーロッパを中心とした全地球的な急激な気温の急降下と、それに続く短期間の極寒期、そしてその後の気温の急上昇である。この時期の気温の変化は現代の温暖化よりももっと極端であったとされており、僅か数年間で7度もの気温上昇が起こった、とされている。 この短期間の寒冷化の原因として、氷河期に北米大陸に存在したローレンタイド氷床が、氷河期の終了と共に融解して大量の真水が北太平洋に流れ込み、それが全地球的な海流の熱塩循環システムを一時停止させ、その結果一時的な『寒の戻り』が起こったとする説などがある。
また同様の例として、8000年前にノルウェー沖で『ストレッガ海底地滑り』が発生したとされている。 この地滑りによって、海底に存在するメタンハイドレート層が崩壊し、推定3500億トン(現地埋蔵量の3%)のメタンハイドレートが放出され、その影響により、当時10年間に4℃の温度上昇が起こったと想定され、約2000年続いた『ヒプシサーマル期』の一原因となったとも考えられている。この地域には今でも千キロにわたって地滑りの跡が残っている、という。
※世界の水深500m以上の海底や永久凍土の下には、水分子に固定された大量のメタンが存在しており、このメタンは大気中においては12年で分解するが、その間にCO2の24倍の温室効果を及ぼすとされている。 このメタンハイドレートは、深海調査の結果、日本周辺に7.4兆?程度存在し、一部では、石油後の有力な資源としても注目されている。つまり人類にとっての『資源』にもなるが、強力な温暖化の引き金にもなる、というものである。 最近のコンピューターシミュレーションによると、今後地球の気温が5℃上昇した場合、世界のメタンハイドレート層が崩壊して、一気に大量のメタンが大気中に放出され『気候崩壊』が生起するという試算もある。

 上記に示した2例の急激な気候変化は、その何れも地球が比較的寒冷な時期に生起しており、例え気温が数度以上上昇した時期があったとしても、その最も高温な時期といえども、21世紀終盤に予測されている温暖化のレベルには、全く及ばないのである。人類は今世紀末に、人類発生以来、全く経験したことのない全地球的な高温期を経験することとなるのである。 これら過去の大規模な気候変動が生起した要因は、勿論すべて自然現象であったのだが、いまや人類は、自ら気候変動を引き起こす力を持つに至っており、その活動の累積により、『ある日突然』世界の気候が激変する、引き金を引く事になるやも知れないのである。勿論、好むと好まざるとにかかわらず、であるが。

 人類が自ら引き起こす急激な気候変動の影響については、過去のSFにもシミュレートされており、日本でも既に1960年代に具体的な形で提示されている。 著名なSF作家である小松左京が40年以上前に、人類の文明活動によって発生した二酸化炭素による地球温暖化と、その影響による大規模な海面上昇を想定している。 この作品の中で彼が描いた22世紀の世界は、人類の排出した二酸化炭素の影響で急激な地球の温暖化が起こり、世界中の氷が全て溶解し、地球表面の7分の6が海に覆われた地球である。 そしてその原因を、各国政府と企業のエゴイズムによって、科学的見地に基づいた温暖化への警告が長期間意図的に無視され、その結果大規模な気候変動が引き起こされたとしている。その結果、南北極の氷床が全て溶解し地球の海面は今より70mも上昇し、世界の大半の平野部は全て水没してしまい、大都市の全ては海の底に沈んだ世界となっている。そしてその世界での『ニュートウキョウ』は、海に浮かび海上を自走する海上都市とされている。この作品で彼が描いた未来社会は、人間が自ら招いた高温多湿で水浸しの地球なのである。
 ここで彼が1968年に発表した短編SF『極冠作戦』(SFマガジン1968年2月号掲載)より、地球の気候変動の原因についての部分を一部抜粋してみる。
 『 − 二十世紀後半から二十一世紀中期にかけての、手ばなしの技術楽観主義に対する手いたいしっぺがえしを、陽気でうぬぼれのつよい前代の連中の死んだあと、次の世代がうけとらされた結果なのだった。 (中略) とにかくその当時でも、ある条件があたえられれば、地表の熱収支がかわり、温暖化が起る、ということははっきりわかっていた。−空気中の炭酸ガスがふえると、温室効果−つまり、太陽輻射は通すが、夜間、地表から放散される熱線は通さないという性質によって−全体として気温が上る、ということである。 これがわかっていたにもかかわらず、人類は、いわば自分で自分の首をしめるほど、この温暖化の傾向を加速することを一向にやめようとしなかった。−二十世紀にはいって、爆発的に発展しはじめた工業生産とその生産物は、地殻内に含まれている大量の炭素化合物を、どんどん熱エネルギーとして消費すると同時に、どんどん炭酸ガスを大気中におくりこんでいた。特に、二十世紀後半から二十一世紀へかけて、石油を燃料とする乗物が猛烈な勢いでふえていき、全世界の化石燃料の消費は、うなぎのぼりの状態になっていったのである。 (中略) 世界気象機構が、全地球の平均気温が二十世紀以来三度上昇したことを発表したのは、二十一世紀初頭だった。大気組成の変化から、あきらかに大気中の蓄熱量が年々ふえ、しかも今後加速度的にふえていくことを指摘し、化石燃料の消費量の増加をなんとか規制しなければならぬ、ということを、語気するどく叫んだこの警告は、しかし、相互にからみあいながら、ふくれ上っていく大企業と、これまた相互に利害を牽制しあっている各国政府によって、なまぬるいものにされてしまった。 − 』
 現実の21世紀初頭の世界は、彼が描いたよりもう少しましなレベルであり、温暖化防止についての全地球的な一応のコンセンサスと、具体的な国家間の取り決めなども少しづつではあるが進展してきている。しかしやはり特に世界の超大国等は未だにそのエゴを露にしており、世界で最もCO2排出量の多い米国や、中国などは1997年の京都議定書の受け入れについても拒否或いは無視しており、全人類が足並みを揃えて温暖化防止に取り組んでいるとは言い難いのも、また残念ながら事実である。 また、京都議定書の次の段階である2012年以降については、特に開発途上国などからの反発もあり、今後予断の許さない状況であり、この小松左京の描いた世界が、完全な絵空事でなく現実のものとなる可能性も、いまだ十分存在するのである。

◎『気候ターゲット2℃』について
この急激な気候変動を水際で防ぐ為の具体的な目標数値が提示されている。
現在の地球のエネルギーバランスは、1uあたり0.85Wの入超となっており、これを今後も継続して 1W/u以内に収めねばならないという。 具体的指標としては
 1.2026〜2060年時点のCO2の濃度を550ppm以下に保つ(450〜550又は550〜700ppmの説もある)
 2.地球表面の温度上昇を全地球で+2.5℃以内とする事。特に北極圏で+4℃を超えてはならない。
 3.それに要する国際的な軽減コストは、世界GDPの10〜20%を上回ってはならない。
 4.海面上昇は、1mを超えてはならない。
以上の数値が、具体的な根拠とあわせ示されている。しかしこの数値を世界の各国が『自らの国家目標として具体的な環境目標に落とし込んで定める』所までは進んでおらず、当面はその方向性が示されただけ、というのが残念ながら現実である。 やはり人間というのは、『自分の向う脛を思いっきり蹴飛ばされなければ』目が覚めないものなのだろうか。“あの”米国も、カトリーヌの影響などからやっと市民レベルで環境問題への取り組みが動き出した模様である。
 しかし、IPCCの2007年5月の結論においてさえ、そして2012年以降の温暖化防止の枠組み協定においても、この気候ターゲット2℃という基準は、各国の政治的意図による様々な駆け引きと綱引きの中で、半ば意図的に置き去りにされた形となってしまっているのである。

(イ)人類の諸活動に伴う環境破壊 ⇒ 化学物質、熱、生物、他による環境の汚染
19世紀の産業革命以来、人類はその自己の未来の無限の可能性を無邪気に信じ、自分の周囲に対し様々な負荷をかけ続けてきた。 当初、地球環境に対してその影響は比較的小さく、自然の復元力によってほとんどそれは目立つ事はなかった。しかし20世紀以降、人間の諸活動は益々活性化し、人口増と活動範囲の拡大は加速度的に増大、気がついた時には、相当な規模、そして様々な形で環境は破壊され、それが復元されるのには多大な時間と労力を必要とするレベルにまで達していた。 現状をあるがままに放置してきた結果が、現在の全地球的な環境破壊と汚染、そしてその連鎖なのである。
この環境問題について、具体的な課題の分析と、解決のための幾許かのヒントを、アメリカの生物地理学者 ジャレド・ダイアモンドが、その著書『文明崩壊(Collupse)』で概説している。 彼は『世界はひとつの干拓地』という比喩で、人間の環境への『総侵害量』を捉えている。
彼が提示している課題として、以下に纏めている。
(1〜4 ⇒ 天然資源の破壊若しくは枯渇)
 1.自然の生息環境を破壊 森林・湿地・珊瑚礁・海底など
 2.野生の食料源である漁業資源の乱獲
 3.野生種や個体群の絶滅 遺伝子資源の枯渇、生物の多様性の喪失
 4.土壌の侵食 農地土壌の急激な侵食及び塩性化
(5〜7 ⇒ エネルギー、真水、光合成能力の限界値)
 5.化石燃料の枯渇
 6.真水資源の濫費 地下水資源の減少
 7.植物の持つ光合成能力を、転用や市街地開発などで減少させている
(8〜10 ⇒ 有害物質などに関するもの、毒性化合物、外来種、温室効果ガス)
 8.毒性化合物の合成と環境への影響 自然分解されず、継続して毒性をきたす物の過去からの製造と環境への蓄積 毒、環境ホルモンなど
 9.外来種の持ち込みによる従来の生態系への影響
 10.地球温暖化ガス、フロンなどの問題
(11〜12 ⇒ 人口増加問題に関して)
 11.世界全体から見ると、人口増加は今後も続く見込み
 12.増加した人口が環境に与える影響が懸念されている
彼は、現在における世界の資源消費量の先進国対第三世界の比を、32:1と分析している。
そして結論として、今の世界はこのままでは持続不可能となる事は明らかである、としている。 そしてそれをブレークスルーするためには、上記12の問題全てに対する明確な解決策が必要であるとする。
本書には、様々な事例で過去各地において人類が直面した環境問題に対する失敗例と成功例が紹介されている。そして、今の米ブッシュ政権が取り続けている様な、議論の為の議論を展開してこれらの問題から目を逸らしたり意図的に無視したりする姿勢は問題を先送りするだけで、自己責任の放棄以外の何物でもなく、反論の為の反論でしかない、という。環境と経済との兼ね合いや、科学技術の進展を当てにして逃げたり安易に代替資源に期待したり、同様に遺伝子技術による食糧問題の解決を当て込んだり現状に対し安易に安住して思考停止したり、徒に環境論者を攻撃したり人口問題が安易に軟着陸すると推測したり、経済の永遠の右肩上がりを無邪気に信じたり、第三世界の人間が殊更被害者意識を持ったり、自分は関心ないと嘯いたりするのは馬鹿げた事なのである。
結論として彼は、自らの想いを“自分は慎重な楽観主義者”であると結んでおり、“まだ間に合う”そして“間に合ってほしい”との想いを持っている。ただ、この生理学者、生物学者の記述の中には“人間は、自らと自らの子孫のために地球という生態系を維持して行く為に、もっと環境問題に関心を持って、一人一人ができることをやって行かねばならない”としている。
しかしそれはその通りなのであるが、彼の論の中では、そのトータルとしての具体的な解決策、何を何時までにどの様にすれば良いか、という回答、或いは示唆だけでも良いのだが、具体的な結論を提示してくれてはいないのだ。つまり環境問題を、人類社会の中でどう具体的に位置付けどう取り組んで行けば良いのか、起承転結の『結』の部分が見えてこないのである。我々が最も知りたい、そして最も重要なテーマは将にそこの所なのであるが。 やはりその道の専門家も持て余すテーマである、という事なのだろうか。

(ウ)生物種の絶滅の加速
  地球上で生息している生物は、学名が付けられたものだけで約百四十万種、未知のものも含めると約一千万種を超えると推測されているが、熱帯雨林だけで一日に五十種から百種の動植物が絶滅しているという。(西日本新聞 2003/03/25 朝刊) これらは人類にとっては同じ森羅万象の同胞という位置付けとなる筈なのであるが、我々は無自覚にそれらの種としての可能性を否定し続けている。 これらの種は、将来人類がそこから学び活用できる可能性のある遺伝子プールという、別の意味においても貴重な地球の財産であり、資源であるはずなのであるが。
 勿論、大きな枠組みにおいては、ワシントン条約(CITES)やラムサール条約などの国際的な取り決めが存在し、その意識も高まってきつつはあるが、一方では密漁や乱獲などの違法行為があとを絶たず、また、最も深刻な問題は、意図的にではなく、自然環境を無計画に乱開発することによって結果的に失われる、眼に見えない生物層の変化なのである。 それは、気が付いたときには既に後の祭りとなってしまっているケースが多く、そしてその大半は復元が大変困難なことなのである。


3.国家間、民族間の “南北問題”
 21世紀初頭の現在、世界はほんの一部の地域を除いてほぼグローバル化が進展しつつあり、安定成長路線にある先進各国と、それを急激に追っている開発途上国が渾然一体となって全地球的な社会構造、経済構造を形作っている。 特に世界の人口の20%を占める中国と、同様に16%を占めるインドの発展は著しく、世界の資源/エネルギー/食料の争奪戦はヒートアップしてきている。 そしてそれは、どこまで続くのだろうか。 例えば、13億の人口を抱える中国が今の米国並みの生活水準 ― 資源やエネルギー、食料などの一人当たり使用量 ― を達成しようとした場合、現在の世界の総需要量は『倍加』する、という。 そして、現在の第三世界の住民が、すべてアメリカ並みの生活水準に達すると、必要とされる総資源量は、今の12倍になる、という。つまり地球があと11個必要となるのである。 また、比較的省エネの進んでいる日本人の生活レベル(エネルギー/資材の消費)に世界人類全てを置き換えた場合でも、地球2.3個分が必要となる、という。(EF(エコロジカル・フットプリント) 環境評価による)
 もちろんこんな事は不可能である。不可能であるが、では現在の先進諸国が、開発途上国の人々に対して『お前らは経済発展せず現状のまま暮らすべきだ!』と言えるだろうか? もちろん、他人が向上発展することを禁止する権利は誰にもないし誰にも止められないだろう。 早い者勝ち?そんな事誰が決めた!という、不毛な議論の応酬となるだけであろう。 今のままだと、世界全体が先進国並みの生活水準になるのは物理的に不可能なのである。そして、その意図の不可能性を、誰も認めようとしないのがまた原状なのである。

◎豊かな先進国と貧しい開発途上国との軋轢、格差拡大
 現在、世界各国の国民一人当たりのGDPを比較してみると、先進国と開発途上国間の格差は依然として大きく、年間30,000USドル以上の国が20カ国ある一方、年間300ドルにも満たない国もまた12カ国存在している。
(市場為替レートベースのGDPによる一人当りのリスト。世界179カ国と地域のデータ 2005年IMFより)
ちなみに、日本は同データでは15位38000ドル、米国は8位42000ドル、中国1400ドル、インドは680ドルとなっている。一位はルクセンブルグの78000ドルである。
 この様に地域や国により、一人当たりの生産性には二桁もの差が生じている実体があり、これはとりもなおさずその対象となる人々の豊かさ/貧しさを如実に表しているのである。そして、豊かな地域の大半は西欧諸国であり、貧しい地域の大半はアフリカ諸国(そして一部はアジア)となっており、20世紀以前の西欧列強による世界各地からの収奪の構造の影響が、未だ色濃く残っている結果なのである。
 そしてこの格差は依然として縮まってはおらず、一部地域での紛争や難民の発生などの不安定要素の基本的な要因となっている。そして世界各地で頻発している大規模且つ継続的なテロの発生は、一部で言われているようなイスラム教徒対キリスト教徒の戦いではなく、その根源的な要因は、実は『豊かな北』に対する『貧しい南』からの強烈なアンチテーゼであり、この対立の構図は、これら富の平準化がある程度進まなければ基本的には解消されないのである。基本的に人間は『衣食足りて人礼節を知る』ということなのだ。

◎一部の国家や企業による資源の収奪
現代社会は、一面『資源収奪型社会』であると規定できよう。
特に米国においては根強い無限拡大志向の無邪気な信奉と実践によって、それは必然的に無限の富を必要とし、彼等が無限と信じている地球資源の、絶え間ない収奪という結果に帰着する。この『無限拡大再生産』思考が生み出した社会の必然が、これまでのなりふり構わない資源の収奪なのである。 そしてこの『アメリカナイズ』に関しては、他の先進諸国も同様の傾向にある。
このアメリカの無限拡大志向の根本原因は、『勤勉』と『倹約』を旨とするピューリタニズムに発していると考えられている。一見正しく思える勤勉と倹約の精神を継続して良しとする為には、必然的に無限に拡大発展が可能な社会でなければならない事となり、結果として『合成の誤謬』効果によって生産過剰と地球の富の収奪が発生する事となる。 (合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、fallacy of composition)とは、ミクロの視点で正しいことでも、それが合成されたマクロの世界では、かならずしも同じ理屈が通用しないことを指す経済学の用語。)
つまり、過ぎたるは及ばざるが如し、である。
 この、資源/資材とエネルギーの流れは、その大半が開発途上国から先進国へと移っている。その流れの中で先進諸国は、原材料を極力安く買い、加工したものを付加価値を付けて高く売ろうとするが、それが許容可能なレベルを超えた場合、『収奪』となる。 勿論、自由貿易体制の中ではその価格付けは市場に趨勢に委ねられる事となるが、その中においても貧富の格差等の要因により、一部では『自らの価値を叩き売る』事が往々にして行なわれている。その歪により、南北問題はより深刻化して行くのである。
本来、日本やアジア、そして(基本的には)中国もそうであるが、古くから自然との共生を基本とした『バランス型社会』であった。しかし特に19世紀以降、ヨーロッパに端を発した『近代化』を否応なしに選択せざるを得なかった過去の時代の影響で、その流れは資源収奪の流れに取って代わられたのである。 西欧諸国、特にEU各国においてもその課題は認識しており、そこからの脱却を目指しているものの、その方向性のポイントとなる思想を見失い、模索している状態である。 過去においてローマクラブレポート『成長の限界』(1980年)を出したのもその現われなのである。
しかしこの問題には、国家間民族間の『競争』という課題が横たわっている。現代の(自由経済下での)各国間競争においては、『自ら成長の限界を認め、或る国が一歩引いた社会政策を取った場合、忽ち他の国との競争に置いて行かれてしまう』というジレンマを内包している。 つまり無限拡大志向路線を変更する場合は、全人類社会のコンセンサスの上に立って、統一して実施せねば奏功しないし、それを無視した国を利するのみとなる。 1997年の京都議定書の批准において、アメリカや中国がとった態度に如実に表されている通りなのである。

◎資源収奪社会の行き着く先
社会や国家が無限拡大志向を取り続ける限り、必然的に、その収奪先の確保が必要となる。そしてその行き着く先は『意図的な貧困の輸出』となる。つまり、無限拡大志向を取る国としては、南北問題をむしろ拡大させ、収奪先を貧しいままにしておき、そこからさらに収奪するという事を繰り返し行なわざるを得ないのである。 徳川家康の言葉とされている『百姓は、生かさず殺さず』という政策を、現代の先進国が開発途上国に対し採らざるを得なくなる。 そして勿論誰が考えても解る事であるが、このやり方には自ずと限界があり、何時の時点かでそれは必然的に破綻する事となる。
しかし、それが理屈としてはある程度理解されても、一面ではそれを認めようとしない、或いは『科学的に実証されていない』という理由でそれを無視する国もまた多い。 その最たる国は勿論今の米国であり、特に共和党の現ブッシュ政権は一貫して無限拡大志向が強く、京都議定書への署名拒否に代表される如く、世界のエネルギー消費の40%を占めていても、自国の産業優先のレベルでしか事象を判断していないのである。

◎資源収奪型社会の生み出すもの
その社会に於いては、消費財は基本的に『使い捨て』である。 しかし、その消費の過程で様々な『情報』と『文化』を生み出す事もまた事実である。 その社会の構成員は、その社会がもたらす弊害と限界を認識し、次のステップへ一刻も早く進むべきなのである。 これらの収奪された資源によって生産された諸々の事物が、人類が次の段階へ脱皮するために必要な『ムダ』であれば、まだそれは究極的には何らかの形で回収され得るのである。

☆南北問題の深刻化について
1940年代から1980年代にかけては、イデオロギーの対立の時代であった。 そして80年代以降、ソビエトの崩壊に端を発した『東西対立』の冷戦構造は終結した。 そしてそれにより、世界においてはもう対立の構図は消滅したかに見えた。しかし現実は、現在はそれ以上に『南北の対立』が深刻化している。 先述の如く南北問題の基本パターンは、『富める北』と『貧しい南』の対立の構図であるが、事は単純ではない。南の多くの国は、過去の植民地支配の後遺症が色濃く残り、20世紀後半に独立/自治を獲得した国々においては、過去数百年間に亘って他国他民族の支配を受けてきており、自らの権利が保障されてからの日が浅く、近代社会で当たり前とされている民主主義が十分根付いていないのが実体である。
政体としては普通選挙が実施され、三権分立が確保されていたとしても、実際の国民のメンタリティがやっと自決権を認識したばかりであり、過去ずっと受けてきた宗主国の収奪等によるトラウマ(被害者意識)を簡単に拭い去ることは難しく、彼等が真に自立した精神を持つためには、世代が完全に交代するのを待たねばならないケースが多いのもまた実態なのである。
20世紀後半において、これらの国に社会主義政権が誕生し、また21世紀の現在も左派政権が成立している要因は、現実の貧富の格差拡大とあわせ、過去からのこうした社会主義思想と相通ずる『被害者意識』が根強く残っているためと考えられる。

◎何故南に左派政権が出来るのか、という疑問に対する回答としては
○南の社会的格差拡大 ⇒ 北の影響(基本的に収奪活動)
○東西対立が消えたこと ⇒ 自由主義の勝利 ⇒ 資本主義の勝利 と西側で取られた  しかし
○規制緩和による資本集約の加速 ⇒ 北でも所得格差拡大 ⇒ 南に輸出(しわ寄せ) ⇒ 南での貧富格差の一層の拡大 ⇒ 社会矛盾の拡大 ⇒ 左派勢力の台頭 という図式が浮かび上がってくる。
だから、先進諸国がこれらの状況を無視して、やみくもに経済援助等を行なったとしても、それは対象国での貧富の差を益々拡大させるだけなのであり、本当に必要な事は、物資の援助ではなく、ものごとに対する考え方を援助先の国民全てに十分浸透させ納得させること、つまり『思想の援助』なのである。


4.宗教問題について
 過去の東西対立の時代においては、世界での宗教問題は、現在ほどクローズアップされてはいなかった。それは東西ブロックの冷戦構造の中で、火の点いたままくすぶり続けてきたのである。 そしてそのイデオロギーの重石が取れた後、一気に拡大の様相を呈してきた。 もちろんそれ以前からも、パレスチナ問題やインド/パキスタン紛争など、相当深刻化したものもあった。 21世紀になってなおこれらの宗教観の対立問題は、一部の地域で南北問題や民族問題と複雑に絡み合って、依然として人類社会の大きな課題となっている。 『無辺の神の愛』や『アッラーの思し召し』を説く彼等が、なぜ異教徒同士争うのか、当事者にしかわからない深刻なテーゼが横たわっているのである。
宗教とは、信心とはその合理性で選択するものでなく、大半の人々はその育った環境等で決定されるものであり、一度決められたら社会とのしがらみ等により簡単には変更できないものである。 また特に現代社会に於いては、相当数の人々にとり、自己の人生に大々的な影響を及ぼすものではない。 故に、大半の人々にとってはその合理性の是非によって自らの宗旨を変更する必要は基本的には存在しないのであるが、一部ではそれが依然として課題となっているのである。

◎一神教同士の対立の構図
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の三むつの宗教は同じ起源を持つ『アブラハムの宗教』あるいは『啓示の宗教』という表現で示されるごとく類縁関係にありながらも、現代社会にあっていわば近親憎悪の状態にある。その要因として一般に言われている事は、11世紀の十字軍に始まり19世紀〜20世紀にかけての欧米列強によるイスラム圏への圧迫や支配に対する民族の自尊心を含めた反発、そして1948年のパレスチナへのイスラエルというユダヤ国家建設のためであるとされている。彼等は基本的に教義の違う相手をお互い認めないという課題が今も存在しており、宗教上の齟齬とあわせ、民族間憎悪のファクターが合わさって憎悪が憎悪を招いており、現在も解決の糸口が見えない状況となっている。

○一神教原理主義者/過激派の存在と活動活性化
現在、世界の紛争の中で、キリスト教対イスラム教という対立が、南北の対立と平行して存在するが、その実態は、大半の『穏健な』キリスト教徒やイスラム教徒ではなく、双方の過激な原理主義者達によるものである事は明白である。
 『キリスト教原理主義(Fundamentalism)』とは、主としてアメリカに在住し、聖書の内容を、文字通り一字一句が真実で誤謬・矛盾は決してないと考え、創世記の記述と直接一致しない科学、特に進化論などを基本的に否定する人達の思想をいう。米国内においては、一部の小学校で、神による天地創造や天動説を、歴史ではなく『事実』として教えている州などもあり、社会的にも相当の影響力を保持している。
また『イスラム原理主義』とは、欧米など非イスラム諸国によって、イスラム主義の諸運動、あるいはムスリムの宗教的・政治的な急進主義派や過激派に対してつけられた呼称である。 19世紀末頃より、西洋的な近代社会概念や文化に反発するムスリムが、宗教的自覚をうながすためにはじめた復興運動で、イスラム的な政治・国家・社会のあり方の実現を目指す政治的活動を指している。ムスリム自身は、このような運動をイスラム復興と総称する例が多い。 現代の報道の多くは『イスラム原理主義のテロ』という類の言葉であらわされる暴力的な活動と同義にされることが多いが、実際の彼等はワッハーブ主義者に代表される穏健派も多く、一概にイスラム原理主義=過激派と単純にとらえることはできない模様である。 実際の彼等の運動は、コーラン(クルアーン)の無謬を信じて厳密に字義どおり解釈し、預言者ムハンマドの時代のイスラム共同体を復興させようとするものであると一般には理解されている。 日本語表現での『イスラム原理主義』は、本来はイラン革命などのイスラム法(シャリーア)による統治の復活を唱えるイスラム教徒による運動を指してアメリカなどで呼んだものの日本語訳であるとされる。
しかし彼等双方の中には、自らのピュアな信仰に依るがゆえに、お互いの教義や立場を根本的に認めようとせず、合わせてその中に宗教的政治的に急進主義的立場を取り、過激派として活動する人達も多くみられ、アフガニスタンでのタリバーンの石仏破壊行動や、イラクやイスラエルにおける『自爆テロ』に見られるごとく、他の宗教(や国家)に対する根本的不寛容の立場を露にしている。

○パレスチナ問題と『嘆きの壁』
 主としてアメリカ内部のユダヤ人を後ろ盾として、第二次大戦後、人工国家として設立されたイスラエルに対し、彼等によって元の居住地を追われ、あるいは迫害されたアラブ諸民族との長期間にわたる紛争が続いており、未だにその行方は見えていない。 この問題には、宗教問題/民族問題に加え、他にも様々な課題が含まれておりその行方は混沌としている。 現在、武力で近隣を制圧したイスラエル人に対して、パレスチナ過激派を中心とした自爆テロが横行しており、互いに血で血を洗う抗争が繰り返されている。
近年、自国民に対する自爆テロに業を煮やしたイスラエル政府が、テロリストの侵入を防ごうとしてパレスチナ人居住区を高いコンクリートの壁で囲んで人の往来を阻止し、これが人権問題として世界の注目を集めているのは衆目の知るところであろう。 2500年以上前にバビロン虜囚を経験し、当時の経験から、エルサレム神殿の壁の一部を『嘆きの壁』と呼んでいるまさにその人たち自身が、パレスチナの人達を壁の中の虜囚としている訳であり、現代のこの地に作られたコンクリート壁は、パレスチナ人にとって、まさに嘆きの壁となっているのである。 歴史は繰り返すというが、4000年前の法典に記された“眼には眼を”の世界を、現代社会においても如実に示しているものであるといえよう。


5.人口問題について
 現在、世界の人口は約65億人とされており、一日あたり20万人増えているという。 (2006年2月現在 米統計局による)うち豊かな層は9〜10億人、そして残りの55〜56億人が開発途上国の住民であり、今後彼等が豊かになろうとしているのである。現在の世界の成長率は、GDPで3〜4%程度となっている。
過去、20世紀に人類は人口爆発と呼ばれる人類史上最大の人口増を経験し、19世紀初頭に約10億人、1920年代に約20億人だったものが、80年余りで三倍以上に増加してきている。 人類が文明を獲得して以来の人口のうちの、約五分の一が現在『生存している』計算になるのである。 そして人口は今後も増え続け、2050年には90億人を突破する、という予測も存在している。 人の数の増加は、個々の生活レベルの向上との相乗効果として、地球環境問題や資源エネルギー問題と密接に結びついており、人類全体にとって大変な課題となっている。そしてその増加の大半は、今後一人当たりの資源やエネルギー使用量が飛躍的に増えるであろう開発途上国で起こっているのである。

(ア)開発途上国での人口爆発
現代における人口問題の最大の課題は『南の人口爆発』である。
13億という世界最大の人口を保持している中国においては、79年から一人っ子政策を強力に推し進めており、現在人口の自然増加率は先進国に近い0.6%程度の値で推移している。しかし一方、インドの増加率は依然として高く、年率1.9%程度で推移しており、このままでは2030年代には中国と逆転するといわれている。 他の開発途上国においても人口爆発の傾向は顕著であり、2%を超える国が軒並み存在している。ちなみに2006年現在での世界平均は1.14%であり、日本は0.02%、EU0.15%、アメリカ0.91%である。そしてこのままの推移が続けば、現在の世界のODAにおいて、近い将来、援助する側の人口より、被援助国側の人口が多くなってしまう事となり、この意味においても課題が存在する。

(イ)人口構成のアンバランス化 ⇒ 特に開発途上国での人口増と、先進国における少子高齢化問題
 今後、先進国中においては高齢化が進み、一方の途上国においては若年層のウエイトが多くなる傾向にある。
国別の出生率を見ると、開発途上国が大変多く、アフガニスタン(7.3人)ウガンダ(7.1人)コンゴ民主共和国(6.7人)イエメン(5.9人)などとなっている一方、日本は1.3人、韓国は1.2人(合計特殊出生率 2005年)と、極端な差が生じており、それが各国の人口増加率に直結している。2050年には91億人になると予想されている世界人口であるが、現在よりもっとそのアンバランス化は進むと予測されている。そしてその流れを放置すると、南北格差についても、現在よりもっと拡大する計算となるのであるる

(ウ)食糧問題 ⇒ 食料の偏在と開発途上国での慢性的食料不足、エネルギー効率の低下
 現在の地球の食糧生産は2006年現在、穀物については19億86百万トンであり、需要を僅か下回っている。そしてFAOの予測では、2050年までに世界の人口増に比例して食糧生産も増加してゆくという見通しとなっている。(世界の食糧需給の見通し 農林水産省) しかし現状は、今後の高収量品種の普及や農業技術の進歩による単収の向上の要素などが期待される一方、砂漠化や水資源の不足などにより世界の耕地面積は一部で減少しているところもあり、予断を許さない状況となっている。
 この食糧問題における今一つの課題は、地球におけるその偏在である。つまり分配における偏倚による『飽食と飢餓』の同時進行が起こっている。 今現在でも世界中均等に食料の分配が行なわれたとした場合、一人当たり約2800Kcalを配分することが出来、トータルとしてみた場合、食糧不足とはなっていないのである。しかし今後も継続して、特に人口増の著しい開発途上国においては慢性的な食糧不足は続いてゆくと考えられ、地球全体における人口増のペースとのアンバランスにおいて、多大なギャップが存在しているのである。 今でも飢えた最貧国が存在し、そしてそれらの国々では相変わらず高い出生率を示している。
 また、豊かな地域のニーズ(牛肉などの高蛋白食品への依存の増大)により、食糧生産全体の資源利用効率の低下が問題となっている。本来、人間の食糧であるべきコーンなどの相当量が、家畜の餌として使用されており、人類社会全体で見た場合、人間が同じカロリーを摂取するのに、極めて効率が悪くなっている。牛肉1kgを生産するのに、穀物(とうもろこし)が11kg必要であり、豚肉では7kg必要とされている。また牛を牧草だけで育てると、肉1kgに対し、30kgもの牧草が必要であると言われており、太陽エネルギーを、植物を通して食物に変えるのに、経済ニーズに基づいた大変な非効率が行われているのである。また現代はそれに加えて、温暖化対策の名目で自動車燃料など、化石燃料の代替としても使用されつつあり、特に開発途上国において人間の食料であるコーンが流用され高騰し、世界的な課題となっている。
 また、現代農業においては、そのエネルギー単位あたりの農業生産性はむしろ低下している、という。『270カロリーのとうもろこしの缶詰一個を生産するために、農機具を動かし、合成肥料や農薬を与えることで2790カロリーが消費される。つまりアメリカのハイテク農場は、正味1カロリーのエネルギーを生産するために、10カロリー以上のエネルギーを使っているのだ。』(ジェレミー・レフキン『水素エコノミー エネルギーウェブの時代第七章』)との指摘などもあり、現代の食糧生産は、多大な化石燃料を消費することによって成立している部分もあるとする見方も存在している。 また、『近代的』とされる肥料と農薬を多用する現代農業は、土壌汚染など、環境への過負荷が指摘されており、温暖化の影響などに起因する気候変動の要因を含め、様々な点から将来的な食料の安定確保への不安は依然として多々存在するのである。
 また多少古い資料となるが、FAOによる食料需給の予測(2050年/1995年対比)によると、同期間の世界の人口増は1.76倍、そして食生活の変化(高カロリー化)は、途上国を中心として1.28倍となり、その積として2.25倍のカロリーを人類は必要とすることとなる、としている。またこの予測が行なわれた時点においては、先述した本来人間が食べるための食料を燃料として使用するなどといった課題は存在しておらず、現時点においては、問題はより深刻の度を増していると推測される。


6.資源問題
(ア)炭素資源、レアメタルなどの資源の限界と枯渇
 過去、石油や石炭などの炭素資源(炭化水素資源)を中心として、今後人類が利用できる年数を試算したデータが発表されてきた。当初発表された予測では、既に人類は石油を使い尽くしている事となる筈であったが、その後の資源開発や採掘技術の発達などによる採掘可能埋蔵量の増大により、むしろそれは増大傾向にあった。 しかし地球上における人類が使用可能な資源は自ずと限界が存在し、特にレアメタルなどの代替が難しい資源の枯渇が危惧されており、現在の資源収奪型社会そのものの限界が露呈しつつある。

(イ)資源収奪社会に対するアンチテーゼ − 有効活用思想(3R)と『もったいない!』思想の普及 −
 過去より、人間はモノを大切に使用する、という美徳を持っていた。しかし産業革命以降の近代社会になるとその社会通念は微妙に変化し、一部では『消費する事が美徳』であるともされてきている。現代の大量消費社会は、先進国はおろか開発途上国にも波及しつつあり、本来人間にとり不必要な部分までもが消費されており、人類全体での『浪費』が課題となっている。
 この課題に対し、人間本来の価値観に立ち返ろうという運動も各地で起こっており、『リユース・リデュース・リサイクル(製品の再使用、浪費の削減、資源の還流)』運動や、ケニアのワンガリ・マータイ女史が提唱している『もったいない!』運動などもおこっている。
 しかし、先進諸国を中心としたこれらの動きの高まりにもかかわらず、人類文明を全体的に見た場合、大量消費社会の全世界的進展のスピードに比し未だ追いついておらず、廃棄物問題などが一方で生じているのが現状である。


7.エネルギー問題
 かつて人類は、その活用できる運動エネルギーとしては、自分達人間が自らの肉体を使って出せるエネルギーのみであった。その後、馬や牛などを家畜化し、それをエネルギー源として使用する事を発明し、大半の歴史時代をずっとそれで過ごしてきた。その時代においては、石炭など化石燃料の活用も一部では行われていたが、大半の熱エネルギー源は木材などの再生産可能なものであった。ただ中国の前漢やローマ帝国など、一部においては森林資源の過剰伐採による環境破壊により文明そのものの衰退を招く事態に至った事例もあった。その後産業革命を経て蒸気機関の発明などを軸として、熱エネルギー/運動エネルギーの大規模利用の時代に入り、現代社会においては、原子力をはじめ様々なエネルギー源をも活用することが可能となっている。

(ア)化石燃料への偏重とその枯渇、環境への過負荷
 現在、人類が最も活用しているエネルギー源は化石燃料である。2004年現在、石油換算にして世界で10,223百万トンものエネルギーが使用されており、年率2.5%の伸びを示している。 そして先述の枯渇問題と合わせ、地球環境への負荷が問題となっている。 CO2を大量に発生させ、地球温暖化の影響が大きいこれらに替わり、代替資源として、天然ガスやメタンハイドレートなどの新しいエネルギー源も開発されつつある。しかしいずれもCO2の発生源として環境負荷がおおきく、人類が永続的にこれらを主なエネルギー源とする事は不可能と見られている。

(イ)風力、波力、太陽光、地熱などのクリーンエネルギー開発の遅れとコスト高について
 一方、代替エネルギー源として一部で有望視されているのが、『クリーンエネルギー源』とされている風力発電、波力発電、地熱発電や太陽光発電などである。 そして風力発電などは欧州を中心として急速に普及しつつある。しかし、一部後述するがそのエネルギー源としてのウエイトは未だ僅かであり、本格的に普及したとしても、それらがエネルギー源の主体となる事はないと思われる。
 また、これら『クリーン』とされているものでも、完全に無公害というわけでは決してなく、それぞれのシステムとしての様々な課題を包含している事も特筆せねばなるまい。
◎クリーンとされている代替エネルギーシステム(一部)における諸課題

 風力発電  低周波音公害・鳥等の生態系への影響・システムの耐久性・発電力の安定性
 太陽光発電  発電パネル製造時の公害問題・発電効率(コストとのバランス) 元が取れるのか?
 天然ガス発電  CO2発生・資源の偏在
 地熱発電  システムの耐久性・適地の限定・発電規模
 波力発電  技術開発にかかるコストと困難さ・発電力の安定性

上記の如く、無公害エネルギーとされているものについても、現実として様々な課題があり、要するに何れを取るかであり、『全てにおいて完全無公害』なものは今の所有り得ないのである。

(ウ)原子力(核分裂炉)開発の遅れ、社会的コンセンサス獲得への注力不足

 1950年代、人類の未来の究極エネルギー源として脚光を浴びていたのが原子力であった。20世紀初頭からの核物理学の発展に伴ない、重元素の核分裂反応を利用して莫大なエネルギーを確保する事が出来るこのシステムは、当初核兵器として使用され、特に日本はその直接被害を被り、その前途が懸念される滑り出しとなったが、一方で『原子炉』は平和利用の象徴として、人類の未来に希望をもたらすものとして扱われた。 日本でも茨城県東海村に初の原発が建設され1966年から発電を開始、原子力時代の幕開けとなった。 しかしその後、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故や、米国のスリーマイル島事故などの大規模な原発事故が相次ぎ、世界における原子力エネルギーの開発に水を指す事態を招いた。また資源小国としてエネルギーの安定確保が至上命題であり、原発の開発に注力していた日本であったが、放射能漏れ事故などが相次ぎ、それを隠蔽しようとした各地電力会社や公社の体質が国民の怒りと不安をあおり、あわせて放射性廃棄物の処理問題や熱排水汚染などの様々な課題も指摘されており、国の不透明な原子力行政に対して、市民から相当な不信感がもたれている。
 これまで日本は『エネルギー安保』の観点から、高速増殖炉やプルサーマルなど、核燃料の効率利用を国策として進めてきたが、技術的な課題と国の政策や電力会社への不振から、難しい状況に置かれている。
 しかし現在、地球環境問題から世界でもまた原子力利用についての機運が再度盛り上がりつつあり、米国も原発建設に復帰しており、温暖化か放射能汚染の危険か、という二者択一の選択を人類社会は迫られている。

(エ)核融合エネルギー開発の遅れ
 現在、『究極のエネルギー源』として注目されている核融合発電であるが、その基礎的研究は1950年代から行われてきたにもかかわらず、技術的困難さから、未だ実用となっていない。
核融合の利点としては、以下に纏められよう。
 ○温室効果の原因となる二酸化炭素が基本的に放出されず、環境負荷が非常に少ない
 ○原子力発電で問題となる高レベル放射性廃棄物が殆ど生じない(方式によっては壁面材の放射能化が発生する)
 ○燃料となる重水素などが安価且つ容易く入手可能であり、資源枯渇問題が殆ど生じない
 ○炉の暴走が原理的に発生せず安全性が高い
などが挙げられている。
現在、日本、欧州連合、ロシア、米国、中国、韓国、インドの7ヶ国が中心となって炉の開発が進められており、ITER(国際熱核融合実験炉)と呼ばれるものが2017年以降の稼動を目指して進められている。そしてそのタイムテーブルでは、核融合エネルギーの実用化は、21世紀中盤以降とされている。 しかし、『それでは遅すぎる』のである!
詳しくは別項で詳述するが、最終的に、人類文明にとってこの技術が何時実用化されるかが一つのポイントとなっている。 地球温暖化による環境破壊が先か究極のエネルギーの確保が先か、というレベルなのである。

(オ)省エネルギー技術の転移
 日本のエネルギー効率は中国の8倍とされており、過去1960年代以降、狭い国土ゆえの公害問題の顕在化や1970年代の二度にわたる石油危機などを軸として、資源小国であり、エネルギー自給率の低い日本では、官民挙げて、継続して省エネルギー化に取り組んできた。 現在日本は、世界で最もエネルギー効率の良い国であるとされ、そのノウハウや技術を世界から注目されている。 特に世界最大の人口を抱える中国では、石炭などを中心とした旧式のエネルギーシステムが未だ中心であり、北京オリンピックや上海万博をターゲットとした、国を挙げての近代化において、省資源省エネルギーへの取り組みは急務となっており、日本に対する期待は大きい。
しかし現実としてトータルで見た場合、人口ウエイトの大きい諸開発途上国のエネルギー効率は未だ低く、世界全体として、今後の大きな課題となっている。 いまだ人類は貴重な資源に対する無駄使いが大変多く、その普及には、その前提となる国民の高い教育レベルや意識改革が必要であり、いまだ道は遠いと思われる。


8.その他の諸問題
(ア)『社会規範』と『社会理念』の喪失 ⇒ イデオロギー闘争終結後における共通の価値基準の喪失
 ローマレポート(‘92)にも述べられている如く、現代は『価値観の喪失』の時代でもあるとも言えよう。 過去からの主要な人間の価値観のバックボーンとして、人類文明の黎明期以来の『宗教』や、経済主義思想に基づく『イデオロギー』、そして各民族、国家としての社会規範や『社会通念』を『喪失してしまった』、というより、人類文明のグローバル化と社会の多様化により個々の価値観が希薄化され、その結果、現代の人間は、北と南を問わず『何を人生のそして社会の指針にしたら良いか解らなくなって』いるのである。
また過去において人間社会は小異を調整し大同して団結するために『共通の敵』を必要としてきた。それは、時代により他の部族であり、他の民族であり、異教徒であり、全体主義者或いは帝国主義者であり、共産主義者或いは資本主義者であった。しかし現在、地球全体の規模で見る限り、決定的なレベルでの『敵』は最早存在しなくなっている。故に、人、企業或いは政府や民族そして各宗教集団は、自らの組織の求心力保持の為、『異教徒の原理主義者or過激派』や『軍国主義の亡霊』や『テロ国家orテロ集団』などを殊更に創り上げ、意図的に敵視ているのが現状である。米国の産軍共同体が、自らの権益を継続的に確保する為、『ならず者国家が養成したテロリスト集団』を、また、中国共産党政権が『旧大日本帝国の残虐性』を意図的に取り上げ、自らの正当性をアピールしている例などもその類であり、逆に言えばそうしなければ彼等は何らの存在価値を持ち得ないことを証明する事となってしまうのである。このことは、人間の個人レベルや各集団レベルにおいても同様であり、『決め付け』や『レッテル貼り』によって、意見や境遇を異にする個人や団体を殊更攻撃するなどの社会現象としても顕在化してきている。
要するに、現代社会が抱える最大の課題の一つが、現代人が自ら拠るべき『社会規範』や『理念』を喪失してしまっており、『人間社会のあり方をどう考えるか、地球全体から宇宙も含めた環境とどう向き合いどう付き合って行くべきかを、明確に指し示すビジョンを持ち得ていない』ことなのである。 意図的な『敵づくり』も、自らに対する不安の裏返しと見る事が出来よう。

(イ)全世界的な過度の資本の集中とそれにともなう社会格差の拡大、強者と弱者の顕在化
 現代はまた『格差社会』とも分析されており、特に近年、日本国内でもその傾向が指摘され問題視されてきている。これは世界においても同様の傾向であり、いずれの地域においても貧富の差は拡大傾向にある。 特に中国やロシアなどの旧共産圏諸国において、それはより顕著な傾向として現れているという。 それに対処するためには、社会的なセイフティネットの確保が急務であるが、国家の財政などとの兼ね合いで、それへの取り組みにおいても国により相当な格差が生じている。
 現代においては、企業間競争もグローバル化しており、資本の移動や貿易の自由化などによって、大規模な企業買収や合併などが加速している。 そしてこの流れが長期的に見て、人類全体にとりプラスに作用するかマイナスとなるかについて、専門家の意見も、統一的な見解は出ていないのである。 一部の専門家の間では、国により大規模な暴動や内戦に発展する危険性を指摘する向きもある。いずれにせよ社会内部における格差の拡大については、いずれ大規模な『揺り戻し』が発生するであろう事は過去の歴史を紐解くまでもなく明らかなことであろう。

(ウ)軍事力の一極集中と、国際調整力の低化
 1980年代のソ連圏の崩壊により、それ以降アメリカが世界でただ一国の超大国として存在し、世界は東西二極構造から、米国を軸とした一極構造となったはずであった。しかしそれで世界は落ち着いたかというと現実はむしろ逆であり、一極ではなく多極構造というべき状況なり、地域紛争や民族紛争、宗教間の軋轢など、紛争の要因はより増大している。 イデオロギーという大きな重石が取れたあと、『自由』と『人権』に目覚めた人達が自分達の想いを直接的に行動に移した結果、皮肉な事に世界はより不安定となったのである。 そしてその不安定さと並行して、国連などの国際的な紛争調整力は低下してきている。この現象は、ここでも『防共』や『資本主義打倒』といった、それまでの単純で解り易いスローガンを喪失してしまった事の裏返しでもあり、各国の思惑において小異を捨てて大同団結する大義名分がなくなってしまったことの証である。

(エ)難民の発生と常態化、移住におけるトラブル、受け入れ国の民族主義との軋轢
 主として中央アフリカや中近東において発生した難民は、その定住先を確保することも現在の所困難とされている。 そして様々な民族間部族間の紛争により、世界中で今後も難民が発生する可能性が常に存在している。そしてこれまで他民族や他人種の移住者達に対して比較的寛大な態度を取り、移民をを受け入れてきた国々においても、移住者の大幅な増加に伴いその影響力の増大に比例して、それを善しとしない国粋主義的な動きも生起してきており、『南北の対立』という世界構造の中、国際社会全体として調整機能が失われつつあるのが現状である。

     



inserted by FC2 system