第二章 : 現代社会の諸課題に対する過去の取り組みと提言  


第二章 : 現代社会の諸課題に対する過去の取り組みと提言


 先記の諸問題に対しては、過去より様々な個人や組織、団体などがその具体的な解決策について種々の提言を行なってきた。 ここでは、それらの中の特に環境問題に関する一部の取り組みについて、その具体的な内容と、実現可能性について考えてみることにしたい。

1.『成長の限界』レポートについて − その限界 −
 1972年に発刊され世界で最初に環境問題について人類社会への警告と提言をおこなった、ローマ・クラブによる『成長の限界』レポートは30ヶ国語に翻訳され、900万部の大ベストセラーとなり、その後の地球環境問題への関心の高まりの元となった。このローマ・クラブの警告は、一部の批判や無視はあるが、全体的には科学的信憑性は十分存在し、その内容は真摯なものである。ただその中身は、『課題解決のための具体的な取り組み手法や内容』までには言及しておらず、読者自らが改めて考えねばならないものとなっている。そしてそこに、ローマ・クラブ・レポートの限界が存在している。(ローマクラブの発足は1968年とされている)
その後、1991年に続刊として『第一次地球革命』を発表、より踏み込んだ解決策について提言を行った。しかし現実の社会は、これら幾多のレポートと警告にもかかわらず、特に温暖化問題などの環境問題に関しては、余り進展しているようには見えない。これらのレポートの中でローマクラブが『解決への鍵』としているものは、『変化への適応能力』であるとしている。しかし一番重要なのは『どう変化させるか』であり、変化については本来人類自ら取り組むべきものである筈であり、他人(若しくは神様)が変化を与えてくれるのではない。未来の人類社会について、それは『どう変わってゆくか』ではなく『どういう形にどう変えてゆくか』が今を生きる我々のテーマである筈である。『他力本願』ではなく『自力本願』で、自らの将来について熟考する事が必要なのであり、この意味において、もうひとつの『成長の限界レポートの限界』が存在するといえよう。


2.『京都議定書』について − その限界 −
 誠に残念な事に、環境問題に関しては、今の世界は『やったもの勝ち』の状況となっているのが現状である。 無限拡大志向を持つ国家と、限界を認識した国が競争した場合、短期的には圧倒的に前者が有利となる。故に、環境問題に配慮する『シュリンク志向』は不利となり、『悪貨に駆逐される』事態となる。 社会のサステナビリティ実現の為には、『発展』が不可欠であり、サステナビリティを確保しつつ社会的な有意な発展の方策を模索すべき。つまり、実際はこの思想はシュリンク思想ではないのであるが、その道は容易ではない。
 米国が離脱し、中国が参加を拒否した1997年の京都議定書であるが、日本が、自国にとり圧倒的に不利なこの議定書に署名したことこそ、『世界に対し名誉ある地位を占める』事を目指し、またEU諸国においても人類全体に対する義務を遂行する意思の表れとして評価できよう。 しかし現実はその削減目標の達成は非常に困難であり、結果として日本は他国から未達成の非難を受けることとなろう。日本やEUは敢えて火中の栗を拾ったのである。 ただ、現代世界で最も省エネルギー化の進んでいる国は紛れもなく日本であり、化石燃料からの転換が進展しているのはEU諸国である。 我々日本人として、世界に対し範を示すという意味では、その意図は誇れるものであると言えよう。
 国内世論に押され、やっとアメリカも重い腰を上げ、また中国においても公害問題や水資源不足、土壌流出問題などとの関連から、中国も余り実効のない形ではあるものの参加の遺志を表明している、2013年以降の、『京都議定書以降』について、日本、EUにおいては、よりイニシアティブを持った提言と具体的実行を行なう必要がある。

◎京都議定書の流れを汲んで − 2007年6月のG8合意 − 
2007年6月にドイツ・ハイリゲンダムで開催された主要国(G8)首脳会議で、日本、EU、カナダが提案した「2050年までに温暖化ガス排出量を最低でも半減する」という目標が合意された。同時に米国の提案により、CO2の大量排出国である中国とインドに対し、この目標への参加を促すことも合意された。
この合意によって、気候変動枠組条約締約国は、温暖化ガス排出量半減という目標を達成する方法について、具体的に協議する流れとなった。
ただこの合意には法的拘束力はなく、今後各国のより具体的な取り組み計画の策定とその実現性如何に環境問題への取り組みの成否がかかってくることとなリ、全く予断を許さない状況である。


3.レスター・ブラウンのエコ・エコノミー(Eco Economy)について
 米国のアースポリシー研究所所長、レスター・ブラウンは、現在の世界の価値観や経済の仕組みでは、人類社会の維持や持続的発展は不可能であり、早急にコペルニクス的な発想(コペルニクス的転回)で、新たなパラダイムを構築しなければ現在の社会は崩壊してしまう、と警告している。
彼の著書『プランB』(2007年現在はその改訂版プランB2.0)において、過去からの資源収奪型の経済システム(プランA)を、早急にエコ・エコノミーの考えに基づいた新たな社会システム(プランB)に転換する必要がある、としている。 
 彼はその基調講演で、最近の中国経済の伸びを例に挙げてこう述べている。
『現在のグローバル経済とエコシステムとの関係のストレス現象や、現在中国で起こっていることをみていますと、さまざまな点で変革が必要だといわざるを得ません。中国の文明が発展することを否定するものではありませんが、1980年から中国の経済は4倍に拡大しています。そしてこの中国の姿は歴史の縮図を提示しています。貧困層は急激に豊かになり、中流層になっています。1994年、中国政府は自動車中心型の交通システムを整備し、国内での自動車産業を振興するために、フォルクスワーゲンやトヨタなど大手自動車メーカーを招聘するという方針を打ち出しました。しかしその結果近い将来、中国がアメリカと同様に、一世帯に1台か2台の車を保有するようになったとしたら、そして、アメリカと同様にガソリンや石油を消費するとしたら、一体どういうことが起きるのでしょうか?そのとき中国は日々に8,000万バレルという石油を必要とする計算になりますが、現在の石油の一日の生産量は全世界で7,400万バレルしかないのです。
 紙の消費についても同様です。中国の一人あたりの消費量がアメリカのレベルに達したとすると、世界の紙の全生産量以上の量を中国一国で消費してしまうということになるのです。
 ここで私が言わんとしているのは、今の基本の経済体制すなわち西洋の先進経済体制というものは、中国では決して成り立たないということです。化石燃料に基づいた消費社会というのは中国では成り立たない。そして他の20億人の途上国の民にとっても、同じく成立し得ません。さらに長期的にいえば、先進国の我々にとっても成立し得なくなる社会なのです。
 そろそろ、転換の時が到来したのだと思います。グローバル経済の再編成、そして化石燃料に基づいた自動車中心の社会経済体制を抜本的に改革し、再利用可能な経済に移る。特に風力と燃料電池に基づいたエネルギー経済に転換する。移動手段としては自動車ではなく別のものを主体にする。使い捨て社会ではなくモノをリサイクル/再利用する社会へと変えるべき時がやってきたのです。これは大きなチャレンジではありますが、興奮も覚えます。なぜなら、そうした社会に移行するためのテクノロジーをすでに我々が持っているからです。』 (環境法人農学会シンポジウム「環境としての経済」 エコロジーシンフォニー2002年5月号)

 彼の提言するエコ・エコノミーとは、21世紀中に100億人を突破するであろう人類の全てを継続的に養うことの出来る、地球環境に配慮した持続性のある『再生エネルギーシステム』や『資源の再生産サイクル』の構築を言っている。そしてその実現には、新たな発想に基づく人類の意識改革により、ダイナミックな社会構造の変革が可能である、ともしており、過去、ベルリンの壁が崩壊し、社会主義体制が短期間に民主化されたように、一気に社会通念やシステムを変える事は人類に取って決して不可能なことではなく、十分可能であると彼は考えている。
 現在の人類にとって最も不足している資源は『残された時間』であり、今後数十年のうちにその変革を達成しなければ、人間は自らの手で地球環境の大激変を招くことになると、あわせて警告している。
 彼によると、現在の経済コスト計算はその全てを包括していない不正確なものであり、本来あるべきコスト計算とは、人間が文明を保持してゆくために必要なコストの全てを考えに入れて計算する必要があるとする。例として、ガソリンなどの化石燃料の本当の経済コストは、生産コスト+流通コストだけでなく、それが環境に及ぼす影響(排ガスによる大気汚染やCO2排出コスト)にまで踏み込む必要がある、としている。そしてそれを考慮したコスト計算によって社会を運営することが、『プランB』の考えなのである。
 人類が自らの文明を今後も存続させてゆくために、今最も必要なのは、『向かってゆくべきビジョン』(未来をどう構築してゆくか、人間が依るべき基本的な思想)であり、地球トータルの環境を考えるとき、一国のみでの繁栄は不可能ということを皆が認識し、各国の国益より人類文明そのものの存続を優先させる考えが必要である、と説いている。 また現在、世界で注目されている、環境に比較的優しいとされる『バイオエタノール』採用の動きに対しても、自動車燃料に対して大量の穀物を消費することとなり、この動きは世界的な食糧不足を招くと警告している。現在の先進国である強い者/豊かな者のみが繁栄を謳歌し、大半の開発途上国の住民は、食料の確保さえままならない状況となり、切り捨てられてしまう事となり、新たな南北問題を引き起こすこととなるのである。

 彼の考えは、今まで言われてきた環境問題に対する解決策の一つの方向付けとして評価できよう。 これまでの人類の諸活動の課題と限界、それが環境に及ぼす影響とタイムリミット、そしてそれをどのような考えで解決してゆくか、ある程度具体的な指針が示されており、人類社会に対しての単なる警告から、一歩踏み込んだものとして見ることが出来る。 現在取り組まれている各企業のCSR活動(           )などの中にも、彼の考えが反映されつつある模様である。 それは、彼の論に代表される『一般論』として一面常識化されつつあるともいえよう。そしてその動きは、世界の各地で加速しつつあり、『京都議定書以降』の各国の取り組みにも影響を及ぼすと見られる。
 しかし、その論に示されている様々な解決策についてシビアに考察してみた場合、それが抜本的な解決をもたらすかと言うと、未だ隔靴掻痒の感じを受けることもまた否めないのである。 人類全体が、現在のアメリカ人並みの生活を送ろうとした場合、地球が12個以上必要とされる、と言う試算に示される如く、単なるエコ的発想や、『再生可能なエネルギー』の利用促進だけでは到底カバーしきれない規模で、人類社会は拡大し続けているのである。資源の再利用システム構築による、循環型社会への移行は当然のこととして、特に人類が使用するエネルギーの総量は、開発途上国の発展に伴って今後も幾何級数的な伸びが予測されており、何らかの抜本的な技術的ブレークスルーがなければ、現存の化石燃料の使用やエコエネルギーの普及だけでは、全く賄い切れない事は明らかなのである。

☆諸課題への取り組みにおける『課題』
結論として、我々はいつまで待てるのか? 地球に待ってもらえるのか?
人類の直面している諸問題を解決するために残されている時間は果たしてどの程度なのだろうか?そして、軟着陸が可能と思われる一部の項目のほかは、ハードランディングするしかないのであろうか?
前世紀において、人類は何度も全面核戦争の危機に直面してきた。 そしてそのクライシスは、直前で辛くも回避されてきた。それが回避できたことの要因の一つは、やはり人間の持つ英知が、その理性によって、最後の一線を越えることを踏みとどまらせることが出来た為ともいえよう。世界の全てが核で破滅することについては、皆がその恐怖におびえ、そしてその恐怖は全世界で共通であり、誰もそれから逃れることはできないという、明確な認識があったのである。 つまり、それは『わかりやすい危機』であったといえるであろう。
 しかし現代の、特に地球温暖化などという、様々な要因が複雑に絡み合って生じている問題は、その当面の影響が各地域や国によりまちまちであり、また場合によっては一部に有利に働くケースもあり、それが人類の全てにとって十分認識されている課題とは言い切れない部分もある。つまり21世紀の人類社会が抱えている問題は、我々自身にとっても『わかりにくい危機』であるとも言えるのである。
 過去の『わかりやすい危機』は何とか回避することが出来たが、これらの『わかりにくい危機』に対して、はたして人類は一致団結して粛々と事に当たることができるであろうか。 これまでにも京都議定書に見られる如く、厳然たる科学的事実が、各国の思惑や政治エゴによって、不当にねじ曲げられてしまっているという状況も多々生起しており、一部の政府や企業の身勝手を、人類全体としてどこまで封じることが出来るか、現代の人類全体の見識が問われているのである。

☆『社会の降伏点』と『環境の降伏点』について
物理現象でいう『降伏(こうふく)』とは、金属材料などに応力を加えていくと現れる現象のことを言う。 応力の増加がほとんどないまま、急にひずみが増して永久ひずみとなる時の応力の値が降伏点となり、物体に働く外力がその物体の弾性限界をこえると出現する。 (ウィキペディア(Wikipedia)より)
つまり、木の枝やプラスチックの棒などを曲げてゆくと、ある限界を超えると『ボキッ』と折れてしまうが、一般的に物事は、ずっと連続して変わってゆくのではなく、ある限界となる点を過ぎると、急激に変化するのが常である。 人間社会も同様で、過去の歴史を見ても、それは徐々に連続して変化してきたのではなく、一時期を境として様々な急激な変革がなされてきた。 そして、我々が住む地球の環境においても、また同様と考えられている。

○社会の降伏点について
 今まで述べてきたように、現代の様々な課題について、それは夫々『流れに任せておけば何とかなるもの』であり、一時的且つ局所的な課題に過ぎないのであろうか。確かに、現在解決が難しいとされる諸問題のうちの幾許かは『時が解決してくれる』ものもあるかも知れない。しかし残りの相当の部分は、何らかの抜本的/集中的な取り組み無くしては解決できないものであり、また幾許かの部分は後々の世代まで継続して尾を引いてしまうものがあると思われる。
人間社会の変革は、徐々に変わるのではなくある時点を境として、ダイナミックに変化するのが常であり、その最近の例としては、1989年のベルリンの壁崩壊後、東ヨーロッパ諸国では一気に政治革命の波が起こり、社会主義政権が倒れ、ほとんど無血の革命によって相次いで民主主義国家が成立したことは記憶に新しいところであろう。そして最も考慮を要する事は、これが悪い方に働いた場合、現在の世界秩序が一気に崩壊し、大規模な紛争が各地で生起する危険性が想定されるという事である。 広範な国家間の紛争や大虐殺、難民の大発生など、人類社会全体が激震するような『社会秩序の大変動』は出来うる限り避けなければならない。かつての世界大戦や大恐慌などの如く、人類全体の歴史に『修復に長大な時間を要する大きな傷跡』を残させてはいけないという事である。社会が対処できるレベルの限界を見据え、叡智を持った人間に相応しく、個別に軟着陸できる形を見出さなければならない。 我々は、自身が所属する社会の『対応力の限界』について、シビアに見据えねばならないのである。
より具体的な事例としては、中国やインドなど開発途上国において加熱経済が一気に崩壊し、社会不安から大規模な暴動に発展、それが近隣諸国に飛び火するなどの可能性が考えられている。また、現在世界規模のネットワークが形成されている金融システムなどにおいても、そうしたインフラが集中しているニューヨーク、ロンドン、東京、そして上海などで大規模地震や核テロ等が発生した場合、一気に世界的金融パニックなどが発生する可能性もまた存在し、人間の作り上げたシステムの脆弱性について、我々はそれを十分認識しておく必要がある。

○環境の降伏点について
 地球はいつまで人間が加え続ける環境負荷に耐えられるのか? 特に、先述した地球の加速度的な温暖化に対し、急激な気候変動を起こさずに済むぎりぎりの点はどのあたりなのか、運を天に任せるのではなく、出来うる限り正確にそれを知ろうとする努力を行わなければならず、そして一旦それが明らかになった時点においては、全ての思惑や各論を捨てて、人類が一体となってそれに対応せねば手遅れとなってしまうのである。世界各地での異常気象の頻発や海面上昇、旱魃の常態化、砂漠化の進行等を、他地域のことではなく、全ての人々が自分の事として考えねばならないレベルに達しているのである。環境問題に関しては、『他山の石』は存在せず、全て『わが事』に帰するのである。小松左京の描いた『水浸しの世界』を実現させたい人は多分いない筈であり、環境問題に対する対処のスタンス如何により、人間としての本姓が問われる事となろう。先述の、EUが提示してきた気候ターゲット2℃という具体的な目標数値も、2007年5月のIPCCの合意においては、中国などからの強硬な反対によって事実上棚上げ/無視されてしまったが、我々は今後の自分自身の活動によって『気候が一気に激変してしまう可能性』を十分覚悟せねばならないのである。現在、今後の大規模な天災や気候異変の発生によって、数百万人単位での『環境難民』発生の可能性が指摘されているが、地球規模での環境の大変動が生起した場合、とてもそれどころでは済まないレベルとなるのは必定なのである。

☆資源、エネルギーの枯渇と限界について
 この問題に関しては、代替資源や代替エネルギーの開発もあり、トータルとしては最大の懸案である石油も含め、今世紀中にクリティカルな事象が訪れることはないとされてはいる。 しかしこの試算は、今後の『人類全体の豊かさへの希求』や、開発途上国の人口の伸びに対する考慮が余りなされておらず、最近のレアメタルの高騰など、その予測は大幅に外れてきている。 またこの資源問題は、地球環境については勿論、北の南からの資源収奪など、民族/国家間の諸課題とも密接にリンクしており、それらとの関連において、やはり大変重要なキーポイントなのである。 我々は早急にこれまでの『資源収奪型』『エネルギー浪費型』社会システムからの脱却を図らねばならない時期に来ている。

 以上、ざっと総括したこれら諸課題に対し、人類社会としてどう対処してゆけばよいのか、行くべきかを、過去提示された諸賢の論などを踏まえ、それらに対する具体的な解決法を考察してゆく必要があると考える。
以降、筆者としての具体的な試論として、まとまった形で提示してみることとしたい。
世界の垣根が低くなり、国家間/民族間がより深く結びつき、グローバリゼーションが進んゆく過程において、人類社会は、過去二度の世界大戦など、何度も危機的状況に遭遇してきた。第二次大戦後の冷戦構造において、全面核戦争の可能性が危機的状況にまで高まったのは、つい数十年前のことである。その時の状況は、米国とソ連が水爆実験をおこなった1953年の時点で、『世界終末時計』の針が11時58分を指した(人類滅亡まであと2分)とされたほど緊迫したものであった事は記憶に新しいところであり、冷戦が過去のものとなった現在においても、その状況は余り改善されたとは言えず、その後の核拡散や地球温暖化、生命科学の軍事利用などへの懸念により、現在も終末時計の針はあまり戻されてはいないのである。
※『世界終末時計』は、原爆投下から2年後の1947年にアメリカの科学誌「原子力科学者会報」(Bulletin of the Atomic Scientists) の表紙に初めて掲載された。実物はシカゴ大学にあり、同誌によって管理されている(何分前を指しているかが新年号の表紙に掲載される)。最近は1950年代のころの冷戦時と異なり、必ずしも核からの脅威のみで時計の針の動きが決められているわけではなく、世界の様々な紛争状況、さらに環境破壊による人類滅亡をも考慮して針が決定されている。 (ウィキペディア(Wikipedia)より)

 とは言え、『種』としての人類の歴史を長期的な見地から俯瞰して見た場合、他の猛獣の襲撃や大規模な飢饉など、自然からの直接的な脅威を人間がほぼ克服した現在、人類内部のこういったプレッシャーや相互の緊張関係こそが、人類社会を発展させ、より高いレベルにまでそれを進めてゆく大きな原動力となっている、とも一面で考えられるのである。 人間がその力を持て余した挙句、自らの種を滅ぼしかねない、という自覚と認識、そしてそれに対する具体的対応こそが、今後の人類社会を進展させてゆくものではないだろうか。その意味において、現代社会が未だ不安定且つ流動的なものであるということは、『進化の意図』を持った知的生命としての人類にとって『普通の姿』なのかも知れない。 先述した、殆ど解決不可能に思える様々な課題を抱えた現代の人類ではあるが、その事を徒に悲観する必要は全くないと考えるべきであろう。 より複雑化し多様化する諸々の課題についても、人類は何とかしてそれらを解決し、次の世代に地球をバトンタッチして行くことは、必然の事として信じて良いと思われるのである。

    



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