第5章 : 宗教に関しての考察


第5章 : 宗教に関しての考察

 次に、人類がその黎明期からずっと保持していた、もっとも基本的な心の発現のひとつである『宗教』あるいは『信仰』について、ここで考察してみることとしたい。 その理由としては、過去の人間の歴史においても、人類史に対して最も大きな影響力を持ってきたのが宗教に関しての動きであり、21世紀の現代社会においても、それは国際社会や地域社会の安定と和平に対し、依然として大変大きな影響力を保持し、また影を落としている問題にほかならないからである。
 人類にとって宗教とは何か?その効能とメリットは?そしてその課題は何か? もちろんこれは非常に大きなテーマであり、筆者が少し考えただけでその概要と課題を全て把握し、方向付けが出来るレベルのものではないことも事実ではある。しかし人類社会の今後のたどるべき道筋を探る上で、この宗教問題、人間の信仰の本質に触れなければ、決して見えてこない部分が存在していることもまた事実なのである。しかしこれについては重要ではあるが一面漠然とした課題でもあり、過去の諸氏の文明論などをみても、この問題に対する突っ込んだ考察は、残念ながらあまり見られない。 ここでは、些か力及ばずとなる事は必定であろうが、敢えて無謀にもこの問題に踏み込んで、その本質について論じてみたい。もとより筆者としても宗教学や心理学などの専門家ではないが、独自の見地からこの課題に対し、幾許かの分析を試みてみたい。
 辞書を紐解いてみると、『宗教』についてはこう書かれている。
『崇拝の対象を何らかの超自然(物理的に認知不可能なもの)的存在におき、自己等の救済を願う行為。英語では Religion と綴り、経験的、合理的に理解し制御することができない現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念、行動、制度の体系を指すとされる。 西洋では、ラテン語のreligion「参加すること、結合すること」⇒人と神をつなぐこと(縁)』 (三省堂大辞林)
 またイギリスのロバートソン・スミスは、『宗教は、個人の魂の救済のために存在したのではなく、社会の存続発展のために存在した』とも記している。
 現代社会においても、人類の大半が何らかの信仰/宗教に帰依しており、社会に及ぼす力は依然大きいのである。東西冷戦が終結し、核戦争の危機から世界がやっと多少解放された今、今度は、2000年の9.11事件以降、南北問題と密接に絡んだ宗教間の対立や抗争、大小規模のテロが世界で頻発している。 11世紀に始まった十字軍と同じレベルの抗争が、2003年、米大統領のブッシュによって始められ、現在も中東において泥沼の状態が続いているのである。 (ブッシュ大統領がイラク戦争を『十字軍』的位置付けで見ていた事は周知の事実であり、彼は、当初の演説内容をあわてて訂正したが、敬虔なキリスト教徒の彼にとっては、イスラム教徒との戦いが必然的に十字軍的発想となるのは心情として当然であろう。勿論それが、超大国アメリカの元首としては相応しくない心情であったとしても。)
町田宗鳳氏の、自身の体験を交えた分析によれば、現代のアメリカは、『アメリカ教』を信奉する世界的原理主義国家であるという。米国の“リベラリスト”達は、キリスト教の神の代わりに『富』という唯一神をあがめ、『自由と民主主義』という教義を受け入れ、それを世界に普及させるべく活動している。そして、従来のキリスト教原理主義者と、ネオコンと呼ばれる新保守主義者の連合した“保守派”とのせめぎ合いの中で、国家運営が行なわれてきた、と分析されている。けだし正解と思われる。 やはりハンチントンの『文明の衝突』に見られる二元論的世界観は、彼等米国民においては普遍的に見られる傾向であるといえよう。

☆世界の宗教人口について
現代の世界の宗教人口は次の通りとされる。(1996年度発行「世界なんでもTOP10」(三省堂)による)

宗教 信者人数 ウエイト
キリスト教 1,900,174,000 34.5%
イスラム教 1,033,453,000 18.8%
ヒンドゥー教 764,000,000 13.9%
仏教 338,621,000 6.2%
シーク教 20,204,000 0.4%
ユダヤ教 13,451,000 0.2%
儒教 6,334,000 0.1%
バハーイ教 5,835,000 0.1%
ジャイナ教 3,987,000 0.1%
10 神道 3,387,000 0.1%
その他 1,410,553,200 25.6%
合計 5,500,000,000 100.0%


 上記の如く、現代世界の大半の人間が、何らかの宗教の『信者』であり、過去に比してその影響は限定されてきてはいるものの、依然として人類の精神生活の根幹部分に多大な影響を及ぼしているのである。 幸か不幸か、我々現代日本人にとってそれは余り意識するものではないが、世界の趨勢を紐解くにあたっては、我々が想像する以上にこの宗教問題は、未だに決定的な影響を保持しているのである。
 上記の各宗教の中で、世界中の各地域にわたって普及しており且つ多数(数千万人程度以上とすべきか)の信者を擁する、いわゆる『世界宗教』と呼ぶことの出来るものは、『キリスト教』『イスラム教』そして『仏教』であろう。 人口比で3位のヒンドゥー教は、地域が限定され、またカースト制などといった制約条件もあり、普遍性において課題があり、一般にも言われている如く世界宗教と呼ぶ事は難しいと思われる。また上記の区分のほかに、中国で一般的な『道教』(信者数3億以上?)などを入れるものもあるが、これも地域宗教とすべきと思われる。 やはり、普遍的な教義と信者を持つ『世界宗教』としてカウントできるのは、過去から言われている如く、上記の『世界三大宗教』とすべきと思われる。 そしてその信者数の合計は、世界人口の6割を占めることとなっている。
 以上からも類推される通り、影響される人口比からいっても、人類社会の将来について考察するにあたっては、この宗教/信仰の問題について具体的に考察することは避けて通れないのであり、過去の諸氏の『文明論』の考察において、余りこの点について触れられていないのは、やはり片手落ちと言わざるを得ないと思われる。 人類にとって、宗教とは何であったのか?今後の人類社会の進展において信仰は必要なのか、そして現代の宗教問題について、それをどう捉えるべきか? 純粋に文明論的な立場から、考察してみる必要がある。


☆宗教の成立と、人が『宗教する』原因について
人類(ホモ・サピエンス)が生まれたのは今から10万年前くらいとされている。しかし、後期旧石器時代の始まり、つまり高度な『文化』の成立は、早くても今から約5万年前位とされており、その間のギャップの説明について、現在、様々な仮説が唱えられている。その中で、比較的注目されている仮説が、先述の『言語遺伝子』というものの存在とそれを人類が獲得した時期、そしてその影響に関してである。そしてここではもう一つ、ヒトが現世人類として成立した時点から、常に共に存在してきたものがあり、それに関してここで改めて考えてみる事としたい。
 『人有る所、つねに言葉有り』と同様に、古今東西の様々な民族、様々な種族に、常に付随して存在してきたものがある。 それはもちろん『宗教』(あるいは、『なにもの』かに対する信仰)である。 『人有る所、つねに神有り』
アフリカで発生しそこから世界中に分散し、熱帯から極地まで様々な地域で文化/文明を育んできた人類であるが、その全てに、何等かの『神』若しくは『精霊』を祀る習慣を、例外なく保持してきたのである。つまり人間は基本的に、過去からずっと『無神論者』あるいは『無宗教』ではなかった、ということになる。
 このことはやはり言語と同様に、人類の基本的な要素として、『何か』が存在すると考えた方が正解と思われる。
(実際に神がおられるから、人は神を信じ宗教に目覚めたのだ!という論もあろうが、ではそれは『どんな神様なのか?』という問いに対し、現在でも統一的な結論は出ていない。若し真実の神が存在するなら、過去人類はこれだけ多数の神を思い思いに発明したりはしなかった筈であり、少なくとも、各人種/各民族の生存する環境条件を超越した、普遍的な存在として神は認識されたはずなのである。)
 この問題に対し、生物学的な見地からアプローチを試みる動きもあり、彼等の論説の中には『宗教遺伝子』なるものの存在を設定するものがあり、遺伝的な要素が含まれる余地も提唱されている。米国National Cancer Instituteの遺伝子研究チームのディーン・ヘイマー氏は、その著書『The God Gene - How Faith is Hard Wired into our Genes』の中で、人が神や高次の精神的な力を信じるかどうかは、VMAT2(脳内で精神を安定させる化学物質の輸送を司る小胞性モノアミン輸送体)という遺伝子を持っているか否かで左右される、という研究成果を発表し、一時話題となった。彼は2000人の被験者のDNAを調査し226種の『霊感』に関する質問をして、各人の信心の程度と遺伝子との相関関係を解析した結果、それが確認されたという。また双子についても調べたところ、この遺伝子を持つ群では、霊的信仰心が強くなる傾向にあることが見受けられたという。彼は「ブッダやキリストもこの遺伝子を所持していた筈だ」と考えており、「これは、精神傾向が遺伝子構成の一部であることを意味している」と記している。しかしこの結果のみをもって、即『神は遺伝子に宿る』とか『全ての信心や宗教活動は遺伝子の発現に過ぎない』などという結論とするのは早計であり、彼の研究結果については、特に宗教界などから否定的な見解が多数寄せられている、という。 やはり、人間の信仰や宗教心が単なる遺伝子の発現による結果である、と短絡的に言うことは出来ないと思われる。
 考古学的事実として、人類と並行して存在していたとされるネアンデルタール人達も、宗教の概念を持っていたとされており、彼等の遺物からは葬送儀礼の跡もみつかっており、このことから、宗教や神というものは人類だけの専売特許ではないという説もある。(6万年前と推定される、イラク北部シャニダール洞窟で発見されたネアンデルタール人の骨には、花を死体の周りに添えた跡が残されており、彼等の葬送儀礼の痕跡とされている。(一部に異論もある))また『宗教遺伝子』説においても、万人がそれを保持している訳ではなく、その遺伝子(群)を持っているグループは、信仰心に篤く敬虔な性格を持つという傾向がある、というだけの事実などからも、仮説としての妥当性に疑問もあり、この課題については、やはり一部で従来から言われて来ている『心理学的』な面からのアプローチを取る事が正解と思われる。
即ち、人間が外界から受ける様々な『ストレス』を処理するための心理的防衛策として、人は自分が受けた『主観的にみて理不尽と感じる事象』に対する合理化の手段として『神を発明』し、心理的安定を得る為に『精霊を発明』したというものである。人類文明の初期段階において、未だ『科学的なものの見方』を獲得するに至っていないレベルにあっては、天変地異や疫病、また個々の人間の運不運など自分から見て一見非合理や理不尽に思える様々な外界からの影響や圧力に対し、時には自分なりに『納得して甘受できる』理由を持たなければ、心理的に安定を保ち自らのレゾン・デートルを保持する事が難しかったと思われるのである。つまり、現実に生起した『結果』には、何らかの(顕在しておらず明確には認識できない)『原因』或いは『原因者』が存在するはずだ、として、現実の結果を取り敢えず納得して受け入れる、心理的なプロセスを必要とした訳である。
 また同様に、自己にとり不都合な現実を『打破する』ための手段として、アプローチする相手や事象を具体的に設定し、それに対し何らかの一定の手段や手続きによって『働きかけ』を行い、その行為を通して、自己の意思を現実界に対して反映させる事を意図したと考えられる。 『心理モジュール理論』の立場を採るならば、現象を合理的に理解しようとする『因果モジュール』などがその心の働きの大元なのかも知れない。
 この見地に立った場合、『宗教』というものの人類学的な役割としては、『個人及び集団社会の心理的不安定さや葛藤を、合理的に納得できる解釈を導入することでそれを取り除き、精神を安定させる為の、人間に生来的にビルトインされた行動システム』と言えるのではないかと考えられる。
 そしてその立場で見た場合、石器時代からの原始的な『トーテミズム』から、現代社会における『一神教』などの近代宗教まで、各宗教の『教義』や信仰の中身、儀式の内容など、第三者的立場で見た場合、みな同様のレベル、つまり『個人の心と社会を安定させる為のスタビライズシステム』であり、何れが高尚/高等であり何れが原始的である、などという区別は本来は付け得ない筈である。 しかし各宗教の当事者にとって見た場合、全く話は別であり、過去、特にキリスト教など一神教の当事者からは『宗教の進化』という概念が提示され、『アニミズムなどの原始的宗教から徐々に進歩し、人類は終に一神教という、最終的に進化した宗教を持つに至った』という、一神教至上主義というテーゼまで提示されている。
 確かに、ユダヤ教に始まり長い歴史を持ち世界的にも沢山の信者を持つ一神教 − 現代の世界人口の半数以上を、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者が占めている − の教義には、論理的に精緻を極めた部分もあり、また宗教哲学としても一分野を築くものではある。しかしやはり事実は(唯物論的見地からでなくとも)基本的に『宗教は人間が発明した』のであり『神(ヤハウェ・エホバ・アッラー)が人間を創造/発明した』のではない訳であり、その根底にあるもの、即ちその『効能』は、他の全ての宗教や信仰と何等変わりはない筈なのである。

◎祈りについて
 人はさまざまなものに祈る。 この『祈る』という行為も人間だけに見られる行為であり、類人猿をはじめ、他の全ての動物は何に対しても祈ったりはしない。つまりこの行為は、宗教行為と連動した、何らかの脳内遺伝子と心理モジュールの発現と考えて良いと思われる。
 祈りの定義に関しては 『神仏に加護、救済などを請い願うこと、祈願、祈祷、祈念』 (good辞書) とあるが、これを心理学的に見ると(身も蓋も無い言い方をすると)
 ・『貴方に帰依しますから、私をえこひいきして、希望をかなえてね。』
 ・『私はこんなに悪いことをしました。反省してますからバチをあてないでね。』
つまり、祈るという行為自体に関しても、『OKのYOUに対し、notOKのIが要求するという行為』であり、自己願望の短絡的発現を期すという心理の表れであると見ることが出来るのである。
ただ、興味深いことに同じ祈るという行為においても、それが完全な『利他的行為』である場合もまた存在する。
 ・世界や国家の平和への祈り、人類社会全体の安寧への祈り
 ・自分の愛する人たち(家族や親しい人達)への神仏の恩寵を祈願  『私の身に替えて・・・・』
この場合の I は、OKの I であると見ることが出来よう。これらは社会や環境との調和を意図したものと見ることができ、『利他心』の発現であるケースと考えられる。ゆえに、同じ『祈る』という行為においても、その全てを単なる『宗教行為』として一概に扱うことは出来ないと思われる。


☆『宗教』という心理プロセスの考察
 上記について、ここでより詳しく考察してみることとしたい。心理学的な見地より見た場合、人が宗教的行動を行なう根本的な心の動きとして、以下のことが考えられよう。

(ア)人間が、環境(内環境/外環境)との関わりにおいて受ける様々なストレスに対し、その心理的悪影響の軽減或いは払拭を期して行なう心理的防御プロセスの一種と見る事が可能である。 そしてそのストレスは、先述のレベル2〜レベル3の社会において多分に発生し、YOUつまり他者や環境に対し、それをnot OKとして否定するために、様々な軋轢や緊張関係を生ずる為であると考えられ、人類が自意識を持ち始めた原初の段階より、こうした心理的防御プロセスは発生したと推定され、それを実現するための様々な手法や対象が発明された。

(イ)この心理的防御プロセスの流れとしては、よりストレスの少ないレベルへの逃避を行なうことにより達成される。 それは基本的にはレベル2〜レベル3の世界から、レベル1の世界への回帰により行なわれる。つまり『OKなYOU』を想定し、その存在に『 not OKなI 』を守ってもらうという発想で、その安心感により環境よりのストレスを軽減させようとする。 ただ、その『OKなYOU』は、現実の他者や環境そのものである『notOKなYOU』の内から求めるだけでなく、その背後にあるものや、別次元に存在するものを想定し、それに対しても求めることとなる。 これは多神教、一神教を問わず同様の心理プロセスであり、レベル2やレベル3の『憂き世』からレベル1の穏やかな世界への逃避がその基本パターンとなる。

(ウ)初期の『宗教』では、その『OKなYOU』を、自らの祖先や強い動物等に求め(トーテミズム/アニミズム)、又、森羅万象に求める自然崇拝(全てとの和合/汎神論)や、人に害を与える荒ぶる魂を、人を守ってくれる和の魂に変える『鎮魂』手法(not OKなYOUをOKなYOUに変える)も発明された。
神の発明のベースにあるものは『擬人化』であるとされる。外環境としての個々の自然に心を見出し、全てに魂が宿るとする心理の動きから、人と同様の心の動きを自然現象に対して認識し、それに祈るというというプロセスである。
初期段階の『祈り』から『宗教』としての成立過程においては、共通したいくつかの要素が必要とされ、そしてそれらは人間社会の内部で具体的に形成されていった。 宗教というシステムにおいて必要とされる要素としては
 ○組織、制度 ⇒ ・教義 ・教団 ・戒律 ・儀式 ・象徴(シンボル)
 ○思想 ⇒ 自然現象や人の行いについての定義
 ○活動 ⇒ 構成員を維持し増やすための布教   などを挙げる事が出来よう。

(エ)初期のユダヤ教に端を発する、世界宗教としての『一神教』(唯一神教)の成立について
BC6世紀頃、中近東においてユダヤ人の民族宗教として『ユダヤ教』の成立を見た。 このユダヤ教は、キリスト教、イスラム教という二つの世界宗教の源であり、同時にその教義にも多大な影響を与えており、世界の一神教のルーツとされている。
そしてこのユダヤ教の中から、紀元1世紀にユダヤ人であるイエス・キリストによりキリスト教が生まれることとなった。キリスト教はその後ペトロなどの弟子達によりローマ帝国内に普及してゆき、その教義の民族の枠を超えた普遍性により世界宗教となってゆく。その主たる教義では、神には同一の本質を持ってはいるが互いに混同し得ない、区別された三つの位格(父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)としている。ただキリスト教から派生した流れの中には別の解釈をする教派も存在している。 アダムとイヴの背信行為以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが(原罪または陥罪)、神にして人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。
 7世紀初頭になって、中近東においてムハンマドによりイスラム教が創設された。彼はメッカ郊外で天使ジブリールより唯一神アッラーフの啓示を受け、その後アラビア半島に移り布教を開始したとされる。イスラム教は唯一絶対のアッラーフを信じ、神が最後の預言者たるムハンマドを通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じる一神教である。イスラム教は偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色がある。その信仰の根幹は、『六信と五行』、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。
六信は、次の6箇条とされる。
 1. 神(アッラーフ) 2.天使(マラーイカ) 3.啓典(クトゥブ) 4.使徒(ルスル) 5.来世(アーヒラ) 6.定命(カダル)
このうち、特にイスラム教の根本的な教義に関わるものが神と、使徒である。ムスリムは、アッラーフが唯一の神であることと、その招命を受けて預言者となったムハンマドが真正なる神の使徒であることを固く信じる。イスラム教に入信し、ムスリムになろうとする者は、証人の前で「神のほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」の2句からなる信仰告白(シャハーダ)を行うこととされている。
そしてムスリムが取るべき信仰行為として定められた五行(五柱ともいう)は、次の5つとされている。
 1.信仰告白(シャハーダ) 2.礼拝(サラー) 3.喜捨(ザカート) 4.断食(サウム) 5.巡礼(ハッジ)
 これらユダヤ教、キリスト教、イスラム教は『アブラハムの宗教』という言い方で、類縁関係を強調されることがある。三者とも始祖アブラハム以来の伝統を意識しており、聖典を一部共有している。ユダヤ教は 旧約聖書を聖典とし、キリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖典とし、イスラム教は旧約聖書の一部、新約聖書の一部およびクルアーンを聖典とする。 ユダヤ教では当然旧約とは呼ばず、単に聖書、或いはタナハ等と呼ばれる。 これらの宗教の違いは『どれを重視するかという違いにすぎず、この3宗教がエルサレムを共通の聖地とするのは偶然でなく必然である』とする見方もある。またキリスト教とユダヤ教の最高神ヤハウェとイスラム教の最高神アッラーフはもともと同一神であるとする説もある。ヤハウェの名をみだりに唱えることはおそれ多いため、アッラーフという別名を設けたのがイスラム教の主張である。 (Wikipedia)を参考)

 これら唯一神を信仰する一神教は、その論理性と影響力において従来のアニミズムやシャーマニズムなどよりも優位に立つこととなった。しかしその根本的な教義の基盤は、やはりレベル1状態への回帰、即ち『not OKなI 』を『OKなYOU』がフォローするというパターンであり、そのyouを大文字とした(絶対性を持たせた)所に一つの進歩が見られる。 このケースに於いては、『not OKな I』にストレスを与える『not OKなyou』(権力者、征服者、他民族、圧政者等)が存在したとしても、OKなYOUはそれに対し絶対的に優位な存在であるとし、同じyouでも、それには対抗できないとしたのである。
一神教のルーツとなったユダヤ教が成立した当時の社会において、その母体となったユダヤ民族は、他の民族と緊張状態にあるか、継続的な圧迫を受け続けていたわけであり、(民族宗教としてのユダヤ教の成立は、バビロン虜囚中のこととされている)彼等の発明した『MY GOD』は、自分達を圧迫する如何なる民族及びその民族の神よりも『絶対的に』強力である必然性があったのである。
 そして、この一神教のメリットは、『神の元では、何人も如何なる民族も平等である』という『神の元での平等』を明確にしたことであるとされる。(その神に帰依することという但し書き付きであるが) 故にその初期段階において、一神教は主として抑圧されていた人たちに受け入れられた。そしてこのメリットと明確さのために、これらの宗教のコンセプトはその後、様々に形を変えて世界に広められることとなった。

(世界最古の一神教は、ザラスシュトラが開いたゾロアスター教とされており、古代イランの宗教伝統を合理化したものと考えられている。善と悪の二元論を特徴とするが、善(光明神、アフラ・マズダー)の最終的な勝利が確定された教義を持ち、その意味では一神教であると言えよう。 しかしこのゾロアスター教は、後のユダヤ教の成立などに影響を及ぼしたものの、この宗教自体が現代にいたる世界宗教として存続することはなかった。)
その後の、ユダヤ教に発する一神教の共通した教義としては次のような内容に要約されよう。
 ○他の神の存在や他の宗教を基本的に認めない
根本的に『不寛容』であり、同系統(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)間においても絶えず抗争を繰り返す傾向にある。 当然、他の宗教、特に多神教は一切認めず、それを野蛮の象徴として排斥する
 ○基本的に、現世利益には重きを置かず、神の約束する天国を重要視する
被抑圧者たちにとって、『憂き世』としての現世で自己実現がなされなくとも、精神的満足を得ることを可能とする
 ○輪廻転生は基本的には認めておらずこの世は一回勝負であり、そこでの行動の是非で死後の永遠の結果を決定するとしている。
『神の意にしたがった』生活を送ることを第一義とする。それはしばしば(特にキリスト教内部においては)聖職者の意に従う事と同一視されて来た
 ○一神論の立場と、善と悪との対立という二元論的世界観との整合のため、悪魔の存在についてもそれを神の被造物であるとしており、最終的な『神の勝利』を担保している。(この部分はゾロアスター教と同一の見解を取っている)
善悪の判断基準について、聖職者が基本的なイニシアティブを持つ事となり、その定義に曖昧さを内包する故に、キリスト教において異端者の迫害や異教徒の虐殺、魔女狩りなどの悪弊を生む事となった。
 ○神が約束する天国は『楽園』のイメージをとり、信者に対して永遠の安息を担保する
『神の庇護の元、永遠の安らぎを得る』つまり『OKなYOU』が『notOKなI』を永久に加護するという形を示す
などが示されている。

 これらの教義に起因して、特に他の宗教に対する非寛容さ故に、歴史上において様々な軋轢が生じ、人間社会の悩みの救済という本来業務と同時に、様々な弊害も社会にもたらしてきたのも事実である。(歴史的に見ると、イスラム教社会においては後世においては余り迫害行為は行われなかったとする説もある)勿論、近年においては、過去の諸問題に対する反省も行なわれており、過去の教義に囚われず、より人間性に基づいた(人間本来の心理に沿った)見解や解釈を次第に行なうようになってきており、『民主的な』宗教となりつつはある。 特に現代キリスト教においては、過去の硬直した世界観から、より現実に即した思想に解釈の変更を行なうケースもある。 例えば、霊魂についての解釈を、それを物質から独立した存在であるとするものの、進化論との対比において、魂の『存在論的飛躍』があったとし、進化論の一部を認めている。 (1996年 ヨハネ・パウロ二世の声明の一文) ただ同時に彼は『人間は、神がそれ自身のために望まれた唯一の被造物』ともしており、森羅万象に対する人間の優位については、ガイア思想などが広く認知されつつある現状においても、従来からの見解を崩していない。

宗教というものの常として、これらの一神教においても様々な矛盾や欠点を内包していることもまた事実であり、基本的に唯一神という『絶対座標』を持つ人々にとって、他の宗教との共存や融合はやはり困難であり、それはしばしば大規模な戦争や虐殺を伴った。 特に新大陸やアフリカなどにおいて、武器の技術レベルの劣った『異教徒』や『邪教徒』に対しては、『神の名において』容赦ない大殺戮や、強制的改宗などが行われた事は諸人の良く知る所であり、また同じ宗教内においても、教義の解釈の違いなどにより幾多の宗派が並立し、それらはしばしば他宗教に対して以上の、血みどろの内紛を繰り返してきたのである。キリスト教内においては、アリウス派の分裂に始まり、ネストリウス派、単性論協会、東西教会の分裂などの内部抗争や、近代においてさえカソリック対プロテスタントの抗争がヨーロッパ各地で多発した。また同時にイスラム教圏内においては、シーア派とスンニ派の戦いが各時代の政権を巻き込んだ、止むことのない戦いを繰り広げてきたのである。

実はこれらのことは一神教ではない仏教の内部でも一部で行なわれ、日本の中世において、一向宗(浄土真宗)などが寺院門蹟をバックに武力抗争を繰り広げ、戦国大名とも死闘を繰り広げていたことも事実なのである。
21世紀の現代社会においても、中東紛争に代表される如く、未だに『一神教同士の確執』が世界平和に対する大きな阻害要因となっていることも、また明記せねばならない事項なのである。(同じ中東紛争でも、イラク戦争などについては、宗教間対立というよりも、石油を廻っての利権争奪の意味合いが濃いという意見もある。しかしやはりそこには、宗教問題が密接に絡んできていることも事実であろう。)

 過去の歴史における、宗教に起因した異教徒や異民族の虐殺数についてのまとまった統計データは確認できなかった。しかし一連の十字軍による多数のイスラム教徒の虐殺や、16世紀のカトリック司祭バルトロメ・デ・ラス・カサスが、『キリスト教徒達は40年間で1200万人以上のインディオを虐殺した』と記した事実に代表されるような新大陸におけるスペインの略奪と現地人虐殺、そしてナチスドイツによる500万とも700万人ともいわれるユダヤ教徒虐殺なども含めると、歴史中において宗教を軸として虐殺された人の数は、莫大な数になるであろう事は明らかである。勿論、それらの事をもって一方的に宗教は悪である、などと決め付けるつもりは全くないが、過去の人類が行った『人殺し』の中に、『宗教的意図による殺人』が占める割合は大変高かったのもまた事実なのである。 これは一面で、宗教的意図による殺人は、『絶対的無責任主義』に容易に取って代り得る為と考えられるのである。 『全ては神の御心のままに』で済ませてしまった殺人のなんと多いことか。
 普遍の人類愛を説いているはずのキリスト教ではあるが、その新約聖書にある、『汝の敵を愛せ』という言葉の本来の意味は、敵とは単なる人間の敵であって神の敵ではないのだという。 「敵を神の敵と考えさえすれば、いくらでもひとを殺すことができるのである。」とされているのだ。 (『憎悪の宗教』 定方晟 洋泉社)
この定方氏はこれらの一神教に対して、その本質を『ヤルダバオトの宗教』であると定義している。 ヤルダバオト(ヤルダバオート)とは、不完全な造物主あるいは傲慢な造物主・この世の創造者として『ナグ・ハマディ写本』中に言及されており、『旧約聖書・イザヤ書』において、ヤハウェは、「我は嫉妬深き神なり」とか「我こそは唯一の神である」などと傲慢な宣言を行っているが、これはヤルダバオトの言葉であるとされる。 (Wikipedia を参考)
同時に彼は、これら一神教の信徒は基本的に敵対者を必要とするとも喝破している。 「もしもすべての人間がキリスト教徒になることを望んだとすれば、もはやキリスト教徒のほうはそれを望みはしないだろう」と、オリゲネス『ケルソス駁論』を引用して述べている。

◎神の論理と人の論理
 (まったく無益な行為ではあろうが)論理的に演繹してみても、若し夫々の一神教の説く『絶対神』なるものが存在し、彼がこの世界を創造したとするなら、人類が発生した当初から一つの宗教、一種類の信仰に集約されていた筈であり、過去の歴史の中で現実に行われてきた一神教同士の『宗教戦争』などの類のものは、当初から生起しなかった筈なのである。
 また彼等の教義に説く『神の全知全能』など『神の優位性』についてのテーゼに関しても、根本的な諸々の矛盾を包含しているのである。
 ○神の試練について ⇒ 神が本当に全知全能であれば、テストする前からその結果が解っている筈であり、無益な行為を何故行なったのか。
 ○個別対応の矛盾 ⇒ 神が全知全能であるなら、その被造物個々に対し自らが個別に対応せねばならぬ様な、非効率的且つ冗長なシステムを作る筈が無い。最低でも自律可能な世界システムを構築する筈である。(逆に仏教などは自律的な世界観を唱えている)
 ○『絶対基準』という誤謬 ⇒ 人間の価値観は時代や環境により常に変遷しており、人間の存在それ自体にも絶対基準は存在しない。
 ○神意の発現 ⇒ 一神教を含めた古今東西のあらゆる宗教や信仰において、いずれにもその効用(いわゆる『ご利益』)に関しては、各宗教において普遍的に示されており、特に一神教において卓越しているといった具体的な優位性は存在せず、また各宗教の『はやりすたり』は全てそれを信奉する人間集団の盛衰に連動するものであり、『神威の優劣』によって具体的に引き起こされた事例は現在まで存在しない。
 ○現代科学との整合性 ⇒ 現代科学において定理とされているものには、相対性理論に代表される如く、何時いかなる場合においても絶対座標や絶対的基準の存在は想定されていない。

※相対論的世界観について
 相対性理論の概要は、現代においては広く知られており、1905年から1916年にかけて幾つかの論文でアルベルト・アインシュタインによって提示された、この宇宙の実体を表す幾つかの方程式で表されている。この相対論は現代科学の一つの根幹をなしており、現在これを否定する有力な他説は存在しない。 この相対論的世界観の最大のポイントの一つは『この宇宙のどこにも、絶対的な座標は存在しない』ということである。 しかし現代のキリスト教指導者達は、一般相対論で証明されたはずの『この世界には絶対座標は存在しない』という定理との矛盾について、相変わらず意図的に無視し、沈黙している。

等々、いくらでも、特に一神教思想に対しての矛盾や論理的破綻を列記する事は出来るのである。
この一神教思想の最大の課題は、『神という絶対座標』を設定しているということにある。つまり絶対的な神が創造した人間は、その神の元では『絶対的な無責任』に陥る危険性が常に存在している訳である。人を神の被造物としている限り、その『製造物責任』は神にある事になり、表層意識として否定はしていても、人の潜在意識の中に、全ては神の御業であるとした責任の放棄が生じる事はやむを得ぬことなのである。「神は私に言った。ジョージ、アフガニスタンに行ってあのテロリストたちと戦え。 だから私はそうした。 それからこう言った。ジョージ、イラクの独裁政治に終止符を打て。そこで私はその通りにした。」 (2005年10月7日 米ブッシュ大統領の発言についてのコリエレ紙の記事) かくして第十次十字軍は進発したのである。
 もちろんこれらの事の大半は、表面的な教義や教典に基づいた批判である。 しかし、世の中に現れている宗教の影響の大半は、これらの結果なのである。 歴史を重ねてきた各宗教の奥義の意図するところは、古今東西を問わず同様の事を述べたものである筈なのだが、それが『一般の信者』が理解するレベルにおいては、その意図する所とは全く別の様々な問題が生じていることもまた事実なのである。先述した、特に現代社会における一神教の教義への諸々の疑問や不信は、まさにその表れと見るべきであろう。
過去、『人間の自立と尊厳』を高らかに宣言し、近代科学の礎を築き近代社会の幕開けを実現した思想であったはずの西欧民主主義思想の根底に、この『人間は何者かの所有物』というキリスト教思想が内在するという矛盾に対し、人類社会全体として、早急にその事を再認識せねばなるまい。 『神が私をして人を殺せしむ』という『民主主義の守護者』があまた存在する事実を、我々はそのまま是とし放置しておく訳にはゆかないのである。
人類社会は、一刻も早く『一神教の呪縛』から開放されるべき時なのだ。

◎一神教思想の功罪
 人間は絶対者の被造物/所有物であるという思想に派生する究極的無責任に陥る危険性はあるものの、未だ野蛮状態から抜け出せていなかった段階の人類社会に対し、これら一神教がその教義を通して人間の取るべき行動規範を具体的に示し、特に西洋〜中近東の文明の進展に寄与したこともまた事実である。その教義の中では、キリスト教とイスラム教は何れも絶対的博愛を唱えている。 キリスト教の聖書には『自分を愛する様に他人を愛せよ』『貴方の隣人をあなた自身のように愛せよ』とあり、これは同様にイスラム教においても然りである。『慈悲深いものは、最も慈悲深い神から慈悲を見せられている』『地上のものに慈悲を示しなさい。すると、神が貴方に慈悲を示すであろう』 そして、イスラム教のサダカ(人の財物は全て神から借りているもの)の教えに基づいた『ザカート(義務としての喜捨の制度)』なども、人間の共存と共生を勧めているのである。
 また、人間自身が己の尊厳に目覚める切っ掛けとなる考えも内包しており、これはキリスト教でいう『スチュワードシップ思想』(自然は人間が神から預かっているので、管理経営する責任があるという考え)にも見いだすことが出来よう。これらの考えは、護民思想や社会システムとしての敗者復活の考え、そして民主主義(神の元での万民平等)など、西洋民主主義思想を生み出す原動力の根幹となったことも事実である。近代科学の発展が、キリスト教圏であったヨーロッパに芽生えたことも、キリスト教の教義に対するテーゼ/アンチテーゼの双方から見て必然であったのかもしれない。

 町田宗鳳によると、『一神教的な世界観』そのものが科学の母体となったと考えられるという。アニミズムに基づく考えのように自然をあるがままに捉えるのではなく、自然の全てを神の御業とし、理解しがたい神の意思を何とか理解しようとして、自然現象を客観分析する所から科学は始まった。 『全てを疑ってかかる』という、科学的思考法の基礎は、一神教の二元論的な還元主義的手法を基として確立されたのだという。 氏の指摘の通り、自然環境を征服の対象とせず、それと調和しようとする多神教的思想の中では、やはり『科学精神』の萌芽は難しいと思われる。そして現代物理学の基礎をなす『相対性理論』の提唱者アインシュタインもまた、一神教の信徒であった事も事実なのである。
この一神教思想には、人間の行動規範の根拠となっている部分(良心の根拠)と、人間の自由な思想を縛っている両面が並存しているのである。 その極端な現れが現代のアメリカ社会であろう。かの国の教育現場では、未だ天動説と地動説が並説されており、キリスト教原理主義者が勢力を保持している一方で、最先端の現代科学や様々な先進的思想が日々生まれているのである。 9.11以降、一時は熱病の如く広まった愛国主義とイスラム圏への憎悪も、一山超えた模様ではあるが、彼等の言う 『Oh my GOD!』の如く、『私の神』と違う『貴方の神』の存在は、米国社会全体においては、未だに完全には許容されていない模様である。 この現代の最先進国においても、ニーチェの言葉とは裏腹に、『神、未だ死なず』なのであろう。 唯一つの神が地上に存在する限りにおいて、『コーランか剣か!』の二者択一を問う時代から人類が抜け出す事は、至難の業であるとも考えられるのである。

 以上、長々と一神教思想について述べてきたが、やはり現代世界においてもその絶対的影響力の大きさ故、避けて通れない課題であり、一面非常に微妙な問題ではあるが、現代に生きる我々として、真正面からこの問題について向き合い、その得失をしっかり把握し、次のステップに備える必要があると考える。ここでは筆者として、『一神教の欠点』について殊更あげつらっているつもりは全くない。一神教が人類社会に対して果たしてきた功績も含めて、これを公平に論証すべきことは当然のことであろう。
『憎悪の宗教』を憎悪することほど、馬鹿げたことはないのである。

(オ)東洋思想について − 今なぜ仏教哲学なのか − 
 愛を説く宗教の基本に、二元論的発想に基づいた敵や憎悪の存在を必要とする、特に西洋キリスト教思想の限界により、現代社会の行き詰まりが指摘されている中、その打開のためにはこれらの敵や憎悪を必要としない、今一つの大きな思想の流れとしての東洋思想によるブレークスルーが可能と思われる。 ここで今ひとつの世界宗教である『仏教』の思想について、一部で一神教思想との比較を交え、考察してみることとしたい。
先項に述べた、一神教の流れとは別の、現代の仏教やヒンドゥー教に繋がる宗教/哲学思想の流れが古くから存在しており、信者数や普及地域においては一神教に及ばぬものの、思想的には大変深いものが存在しているのである。
特に古代インドにおいては、宗教と哲学とが融合し宗教哲学として成立、哲学的に、より深化した思索が行なわれて来た。 (古代ギリシアにおいても、深い哲学的思索が行なわれていたが、それらは後のキリスト教思想やイスラム教思想に影響を与えはしたものの、後世において間接的に引用/利用されたのであり、当時のギリシャ人が帰依していた宗教を認め、その哲学として論考された訳ではなく、ギリシア哲学とキリスト教思想などとの融合は、あくまで二次的なものである)
仏教をはじめとする古代インドにおける思想の中では、自己と他者との関係はおろか、その基本的存在の是非と相互関係をも見直す思索が行なわれてきた。 すなわち、IとYOUとは本当に存在するのか、それらは本質的に同一なのか別々に存在するのか、またその双方はOKなのかnotOKなのか?ということについての哲学的な思索である。

◎ヒンドゥー教思想について
 古くはバラモン教と呼ばれ、数千年以前からインドにおいて基本的な民族宗教思想として存在しており、多様な経典や思想を持っている。それらは長い歴史を持ち、大変深い思索内容を蔵した『ヴェーダ』と呼ばれる叙事詩にその思想は集約されている。基本的に多神教であり、輪廻や解脱といった、その根底には仏教と共通した概念を持っている。現代社会においては、その普及地域の殆どはインド国内であり、一部がインドネシアを中心とした東南アジアに分布している。 しかし一方、一面で人間社会を固定してしまうカースト制などの思想もあって、近年においてインド国内では社会問題にもなっており、その制約ゆえに他の宗教からヒンドゥー教への改宗も難しいとされており、今後この宗教が人類社会全般に普及する事は難しいと思われる。

◎仏教思想の要約
仏教は、ヒンドゥー教と同様に同様に古代バラモン教から発生し、釈迦牟尼(しゃかむに=ゴータマ・シッダルタ)を開祖とする。釈迦牟尼の本来の教えは、個人が自ら真理に目覚めて悟りを得、解脱するための方法論が主であり、当初は全て口伝によって弟子達に伝えられていった。 そして彼の死後200年以上たって、その後を継いだもの達により様々な思想が展開され、その教義は拡大付加されてゆき、個人の解脱を目指すものから次第に世の中全般を救済するための宗教思想に変わっていった。それが『大乗仏教』と呼ばれる一連の仏教思想である。これは東アジアを中心とした各地に広まってゆき、現在の仏教思想の多数派を占めている。
この大乗仏教においては、自身の涅槃への到達を追求するにとどまらず、森羅万象全て(一切衆生)を救済する誓いを立てること(誓願)が主張され、『利他行』(他のものの為にことを行なう)の実践が強調されている。 つまり、人が様々な修行をするのは、自己救済の為だけではなく、同時に全ての衆生を救う為でもあり、みんな『仏性』を持っているのだから、共に修行し共に解脱しよう(皆倶成仏道)、という思想である。 (仏性とは、他者との共存を志向し、両者の心の進化を志向する事により、全ての精神が悟りに至る事を目指す性質をいう)

@仏教思想の根本認識は、この世界は基本的に『空』(=無)であるとする。
 (色即是空/空即是色 = Real/Vertial)あらゆるものは基本的に空であるが故に、何物にも囚われてはいけないとしている。 よって、人間が経験する全ての苦しみ(四苦八苦)なども全て仮のものであり、真実ではなく、それによって悩んだり執着したりすべきではないとする。

Aこの世界を創った造物主(クリエイター、仏教においては毘盧遮那仏あるいは大日如来)は存在するが、森羅万象のなりわいには基本的に干渉しないとされている。(キリスト教的『理神論』の考えとは別物である)

Bこの世界に生きる森羅万象(人間を含めた動植物など自然界に存在するものすべて)は全て仏性を持ち、大慈大悲の心と、自ら悟ろうとする心の動きを持つ。 つまりこの世界/社会を媒体として自己の魂の進化を図る意思を持っている、とする。 (いわゆる『如来蔵思想』。これは主に大乗思想の中で述べられている)
そしてこの如来蔵思想は、『利他行為』や『共生』を基本とする見地から、現代の『ゲーム理論』の成果とも通ずるものがあるともされている。
※最新のゲーム理論において、その最強の手とは、『しっぺ返し戦略』であると言われている。この戦略は、基本として a.先ず相手を信ずること b.互恵を基本に置く事 c.裏切られたら即報復するが、相手が裏切らなければ自分からは決して裏切らない d.一度報復したら、次回は再度信頼する というものである。 過去様々な研究者が、様々なルールに基づいてゲームを行ないその勝敗の統計を取り、どういう戦略がもっとも効率的に高得点(勝ち点が多い)を取ることが出来るか試してみた所、上記の『先ず相手を信ずることから始める』戦略が最終的に最も得点が高かったという。 この事実から、この成果を『生物学的な戦略』の解釈に適用しようという動きもあり、人間が社会を形成し、共存を果たしてきたのもこの為である、という説も提示されている。一方、これを宇宙の基本原則と位置付ける説もあり、森羅万象は基本的に共生の道を選ぶ、とすることの証であるとしている。

C精神(魂)の教導は『先達』(先輩)が指導する事が主である。そして精神は輪廻転生を繰り返すことにより進化する。つまり仏教思想でいう輪廻とは、円環(サークル)ではなく螺旋(スパイラル)であるとしており、ここがヒンズー教などの教義と違った仏教思想独自の見解であり、輪廻を繰り返して進化した魂は究極的に『涅槃の境地』に達し、この世界からTake−Offする事(解脱)が出来る、すなわちこの世界から独立した存在となる事が可能であるとされている。 (これが仏教思想の中でいわれている『二元的構造論』であり、因果応報の『六道輪廻』の世界から輪廻を脱し、『解脱』の世界へ至る道を示したのが釈尊の唱えた本来の仏教であるとされる。)
この思想を敢えて一言で表現するなら、様々な大乗仏教思想に明示されているように、『魂の進化論』であると言えよう。 例えば曹洞宗開祖道元の弟子の懐弉がまとめた「正法眼蔵随聞記」には、「示していわく、仏々祖々(ぶつぶつそそ)、皆な本(もと)は凡夫なり、凡夫の時は必ず悪業(あくごう)もあり、悪心(あくしん)もあり、痴もあり、然(しか)あれども尽(ことごと)く改めて知識に随(したが)いて修行せしゆへに、皆仏祖と成りしなり。 今の人も然あるべし。我が身愚鈍なればとて卑下することなかれ。」とあり、何度も人生経験を積み、修行する事によって、どんな人でも最終的に解脱することが出来る、としているのである。

D以上のことから、毘盧遮那仏がこの世界を創造した意図は『衆生済度』であり、即ち仏性の具現化であるとされる。 そしてこの世界から解脱し得た精神は、また同様に自らの仏性により、その独自の世界を創るケースがあり、それが所謂『極楽浄土』などと称する世界であり、我々が住むこの事象とは独立した、『十法浄土』と総称される独自の別の宇宙=パラレルワールドが無限に存在するとしている。特に大乗仏教に於ける仏教思想の解釈では、現代科学の観測結果に基づく『人間原理』などの思想も、この宇宙創生の意図が仏性の具現化と捉えるなら、自ずと説明が付くこととなるのである。

Eまた、仏教の中心思想に『縁起』という考えが存在する。縁起とは、個々の存在は、全ての生命を含むあらゆる存在を維持している、全てを結ぶ相互関係の壮大なネットワークの中に生存しているとし、『全てはつながっており、いかなるものも孤立しては存在し得ない』とする世界観である。(華厳思想の中の『法界縁起』などの思想)
これは人間の意識が、140億個程度あるとされる脳細胞そのものにあるのではなく、その間のニューロンネットワークに存在しているという事実等とも対比しうる考えであり、また、この世界の実存構造がネットワークであるという思想と、情報ネットワーク社会である現代の社会構造との類似も見てとることが出来よう。それを殊更なこじつけと取るか否かは読者にお任せするとして、縁起思想の立場から見れば、人類がユビキタス社会を実現させたことは、必然のこととして受け取れるのである。

現代の大乗仏教思想の概要は上記に要約されよう。 ただ大乗仏教系宗派の中には一神教的な思想を持つものもあり、例えば浄土宗系の教義においては、人間は念仏を唱える(仏=阿弥陀如来を心に念じて口に出し、その事のみを考える)ことにより、『極楽浄土』に転生するといった、極楽浄土を主催する『阿弥陀如来』(のみ)を信仰の対象とする宗派も存在している。(勿論、これらの宗派においては他の諸仏の存在も認めており、唯一神のみを信ずる一神教思想とは違うものではあるが)
宗教としての仏教の中には様々な宗派や考え方があり、宗教思想としては勿論、哲学的な側面においても、大変幅広いものを包含しているのである。

◎最新の宇宙論と仏教思想との整合について
 現代の宇宙論においては、この宇宙は約134億年前に生起した『ビッグバン』により生まれた、とされている。ビッグバンの以前の状態については、『事象の地平線』の先の事であり、この宇宙の因果律が適用できないため、『不明』とされているが、各氏の数理的考察などによって、この宇宙は『無』から生じ、その宇宙の種がトンネル効果によって『虚』を通過して生まれ、ビッグバンを起こして急激に広がり(インフレーション宇宙)、その後次第に現在の姿になった、とされている。 つまり、現代宇宙論においてもこの宇宙に含まれる全ては『無』から生まれた、というのである。 そして、ビッグバンの過程で生起した僅かな『ゆらぎ』(局所的な物質的不均衡)から宇宙の全ての星々や銀河が生まれた、と考えられている。
 現在の宇宙の構造/形状についての具体的な定説は今の所存在せず、それが三次元的、四次元的に閉じた形なのか、あるいは開かれた形なのか、様々な論考や観測が行われている。 最新の宇宙論として世界から注目されているのは、米国の理論物理学者リサ・ランドールによって唱えられている、この世界は五次元時空構造をしているとするものであり、彼女をはじめとした多数の理論物理学者によって数学的な証明が試みられている。
 また遠い未来において、この宇宙が現在の膨張から収縮に転じ、再び一点に集約され無に帰する(ビッグ・クランチと呼ばれる)こととなるのか、或いはずっと膨張を続けて最終的に『熱的な死』(宇宙の全てのエネルギーが均衡してしまうこと)を迎えるかについても、様々な説が提示されており現在の所定説は存在しない。
現代の最新の宇宙物理学においても、この存在体系の全ては仏教思想の示す如く『色即是空/空即是色』である、つまり『無』と『存在』は基本的に区別できないものである、とされているのである。
 このように仏教思想は、概して現代科学、特に最新の宇宙論や相対論などとの整合性が高いとされている。 また、『事象の暗合』という面で見るなら、地球上における生命の象徴であるDNAの二重螺旋構造と、仏教の輪廻転生(精神の進化モデル)との整合も、ひとつの象徴と言えるのかもしれない。

※人間原理について
 人間原理とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙構造の理由を人間の存在自体に求める考え方で、『宇宙に人間が存在しており、そして宇宙の法則が人間を存在させるために最適な値であるのは、そうでなければ人間が宇宙を観測し得ないから』という論理を用いる考え方である。この原理を用いると、宇宙の構造が現在の形を取っている理由の一部を解釈できることになる。ただやはりこれを自然科学的解釈に適用するについては様々な論争もあり、未だ定説となってはいない。
物理法則や諸物理定数が現実と少しでも違っていた場合、そして宇宙構造が3次元以外であった場合、この宇宙には、生命はもとより原子や恒星さえ存在できない事になってしまうという。この宇宙の諸原理や特徴が定量的に解明されてゆく過程において、我々のような知的生命を育む宇宙が偶然に出現する確率は、途方もなく小さい事が明らかとなっている。 ある試算によると、生命が存在する宇宙が偶然によって出現する確率は、10の1230乗分の1という。つまりこの宇宙は事実として『奇跡的なレベルで』バランス良く作られており、多くの蓋然性の中で、なぜ人間の様な高度な知的生命を生み出す事が出来る構造をしているのか?それは本当に偶然の産物であったのか?という疑問に対するひとつの回答として『人間原理』は提示されている。しばしばこの人間原理は、キリスト教世界において『創造論』的な観点から、知的デザイナーとしての造物主の存在を支持する論拠として用いられている。
 イギリスの物理学者ブランドン・カーターは、『生命が存在し得ないような宇宙は観測され得ず、よって存在しない。宇宙は生命が存在するような構造をしていなければならない。そうなるように宇宙の諸定数は現存の値に厳密に設定されていたのだ。』という『強い人間原理』を提示した。また彼の他にもスティーブン・ホーキングなど、様々な人間原理を唱える科学者が存在している。そしてその相当数は、具体的あるいは比喩的に『造物主』の存在を宇宙の根底に想定しており、特にキリスト教的文化環境に身を置く科学者達とって、それは一面で自明の事なのかも知れない。西欧社会においては、これらの論は『クリエイター』とその意思の存在を示す証拠としても捉えられている模様である。人が存在しなければ天地自然はそこに存在しない、というこの人間原理は、キリスト教徒によって提示されてきた。まさに一神教的認識論の世界といえよう。
 しかし同様に、非西洋の思想、特に仏教思想からの論考においても、先述の如くこれら人間原理的宇宙論については、『衆生済度のために意図して創られた世界システム』であるとして扱う事もできる。 また大乗仏教の根幹をなす認識論体系である『唯識論』においては、現象世界の全ては縁起によって生起/存在しており、それを人が認識している為に存在しているだけであって、人の心の外には本来、いかなる事物も無い(唯識無境)としており、人間は各人の『阿頼耶識(あらやしき)』が生ぜしめた世界を、実在する宇宙として認識している訳であり、我々を取り巻く全ての存在は、心のイメージの投影にすぎない(識別)としている。 (大乗仏教の世界認識モデルは、『八識』つまり人間の五感+末識(表層意識)+末那識(マナ識=自分への執着心)+阿頼耶識(アラヤ識=深層潜在意識)の、計8つで表されている)
このテーマは、宇宙物理学的なテーマであると同時に、哲学的/宗教的なテーマともなっているのである。
 (ウィキペディア(Wikipedia)を参考)

こうして考察してみると、世界の過去の宗教思想/宗教哲学において、現代の最新の宇宙物理学や相対論などの諸物理学、或いは人間原理などとの整合性において、最も妥当なものは、ほかならぬ『仏教思想』ではないかと考えられるのであるが、いかがであろうか。


☆仏教思想と一神教思想との比較
 これも全く無意味な比較論となろうが、東洋的自立世界観と、西洋的一神教的世界観というふたつの認識を対比してみることにより、現代社会 − 西欧型社会 − のメリットと欠点、限界、そしてその何らかの打開策を垣間見ることが可能となるかも知れない。 特に今までこういった面からの比較がなされた論をあまり見た事がなく、東洋/西洋の違いを越えた新たな思想構築への、ひとつのトライとして考えてみる価値があると思える。もちろんこの宗教教義の比較は、あくまで『比較』であって、絶対的な価値基準の序列をそこに求めているのではなく、一方が優れ一方が劣っているというレベルの問題ではないのである。

◎『創造者直接関与型世界観』と『自律進化型世界観』
 一神教の世界モデルは基本的に、この世界と人類を創造した唯一の神が全ての人間に対して平等に関与し、人の行動の善悪により恩恵と懲罰を下す、というものであり、全知全能の神だからこそそれが可能である、としている。 これに対して仏教思想においては、基本的にこの世界の創造者(毘盧遮那仏あるいは大日如来)は人間の行いには直接関与はしない、とされており、世界の運営は全てその世界に住む森羅万象自らが行なう、つまり先輩による後輩の指導という、自立型の世界モデルとして示している。
論理的に見て、この何れが合理的且つ効率的かは、すぐにも理解できよう。人間でさえ、自ら製作した機械やシステムに、古くから『自律機構』(サーボシステム)を組み込んでおり、トラブルの生じた都度、個々に対応する事はしないのである。 現代宇宙論によると、この宇宙には何千億もの銀河が存在しており、その何れもが二千億以上の星を擁しているとの事である。つまりこの宇宙に存在する生命の数は事実上無限であり、いくら『神様』が全知全能でも、その全ての知的生命に対して直接干渉する事は、物理的に見ても不可能な数字であり無意味なことである。

 ○リニア的人生論と、進化論的人生論
  ただ一度の人生で全てを決定することが果たして正しいのか。敗者復活あるいは自省してやり直すことの出来る人生の方が、人の進歩にとって有効なのではないか?
 ○絶対的世界観と相対的世界観
  神という絶対基準/絶対座標は実際に存在するのか。自然はそれを必要とするのか。
 ○絶対者の所有物としての自己と、独立した魂として解脱が可能な自己
  何者かの所有物であり、究極的に自立不可能な存在として自分を規定するか、あるいは自分は独立した一つの魂であり、修行することによってこの世界から解脱/独立出来る存在なのか、何れが『好ましい自分』であるか、という事である。
 ○現代科学との整合性について
現  代宇宙論、一般相対論、進化論、などとの整合性は何れが高いのか。
 ○人間原理との整合性について
  人間原理が成立するためには、絶対神の存在が不可欠なのか。唯一神の存在と、パラレルワールドが存在する可能性とその必然性について
 ○霊魂は神によって直接作られたのか。 人間以外の他の生物には魂は存在しないのか。
  特にキリスト教の見解では、人間の霊魂は神によって作られ、人間以外の生命には魂は存在しないとされている。(にもかかわらず、『牛は食べても良いが鯨はいけない』と主張するIWC(国際捕鯨委員会)における捕鯨禁止を訴える各国の意図が何にあるのか全く不明である。彼等が全員ベジタリアンであったなら納得できるのだが。)
逆に仏教思想においては、全ての生命には魂が宿るとしており、魂の軽重には差がなく、全ての生命は同様に尊いものである、としている。
 ○キリスト教的『愛』と、仏教的『慈悲』の違い
  キリスト教的な愛とは、神に裏打ちされたものであり、基本的に前提条件がつく。つまり if〜then〜の愛であり、神によって担保されたものとされる。『○○しなさい、そうすれば神によって祝福される』
それに対して、仏教的な慈悲とは、何者にも担保されず、いかなる代償も求めない行為であるとされる。『他利行』の思想に基づき、大慈大悲の想いは、全ての存在に内包されている、としている。

 上記などの比較において、少なくとも今後のきたるべき社会の実現に向けた思想としては、やはり『仏教思想』の哲学を世界に当て嵌めることが求められるのではないか。 確かに現代科学は、キリスト教圏であるヨーロッパに端を発し、その基本土壌の一端となっている(それがテーゼ/アンチテーゼのいずれであっても)事は事実ではある。しかし特に今、西欧型の『人間の尊厳と人間による自然の征服』といった、人間vs自然環境という二元論的な考えの限界が明確となっており、従来の『欧米型一神教二元論的世界観』とは別の、『東洋的調和型世界観』での人類文明の再構築が必要と思われるのである。仏教思想においては、『一寸の虫にも五分の魂』という言葉に象徴される如く、全ての生きとし生けるものには、全てに魂が存在しているとしており、『人間の一人勝ち』的な世界ではなく、森羅万象が共存する『ガイア世界』を人間自らが志向して行くことが可能なのである。 また洋の東西を問わず拡大の傾向にある現代の『格差社会』について、よく言われている『頑張った人が報われる社会』の実現は当然である。しかし、『様々な理由で、頑張ることが出来ない人』達の事はどうなっても良いのか?それが赤の他人であったら構わないのか。では若しそれが自分の家族だったとしたらどうなのか?条件によってそれは変わるものなのか。ピューリタニズムの具現化だけで人間の自由と平等、そして公平は達成されるのであろうか。確かに、神の意志を実現し救いの確信を得る為の大変ハードな努力主義は、近代資本主義の原動力となったが、そこに置き去りにされてきた様々な『真に大切なもの』に対して、別の観点からそれを見直すべき時ではないか。何の為に我々は、ピュアな弱肉強食の世界である『獣』から進化してきたのか。ここでは、条件付きの『愛』ではなく、無条件の『慈悲』という考えがより一層必要と思われるのである。


☆『宗教の発明』の必然性に関して − 人はなぜ宗教(信仰)を必要としてきたか − 
 以上述べてきたように、人間が神、つまり宗教を発明したのは、洋の東西、文明の進展レベルなどと余り関係なく、人類社会に普遍的なものであり、やはりそこに種としての必然性が存在すると考えてよいのではないか。 人類が個人としてまた社会として存続して行く為に有効な、様々な効能が実際に存在したから、人は宗教を発明したのである。過去、人類が非常に多大なエネルギーを費やして『神の存在を想定してその加護を期待する』事には、必然的に具体的な理由が存在していたのである。
宗教の発生について、それを哲学的課題として考察した場合
 ○脳を発達させた人類が、その精神の安定確保のために『発明した』もの、としての捉え方
 ○元々この宇宙と人間は神が創造したものであり、被造物である人間が創造主たる神を根源的に認識し崇めるのは、自然の理である、という捉え方
が挙げられるが、やはり先述してきた如く、後者の考えは論理的に見ても排除されることとなろう。
過去において、神の実在に関しては、特に一神教でその『証明』が盛んに行われてきたが、若し、相互に交流の無い複数の社会において同様の神を祭り同様の宗教が成立していたのであれば、それは実際に地球の上に『神がいまします』事の証明になったかも知れない。しかし実際には、人類は夫々の文明でそれぞれの神をいただき、文明の衝突が生起した時点においては、それぞれの神々もまた人間と同様に『戦った』のである。それは、同一の起源を持つ一神教 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教 においても同様であり、むしろ相手を『絶対的に認めない』レベルでの殺戮を繰り返してきており、その正否、正邪の決着も付いていない。故に、この地球上において『どの神が真実の神なのか』という結論は現在の所ついてはおらず、将来にわたってもつかないであろう。 論理的に考えても、神が人間を創ったと仮定した場合には、到底この様な事は生起しないであろうし、逆に人間が神を創った場合は、将に現状の如き事象が生起するのである。
 一部先述したが、主に一神教思想の中における論の中には、人類社会に争いごとが絶えず、天変地異の被害なども含め、人がこの世に生きることが大変苦痛であるのは、善き神、正しい神がこの世界を創造したのではなく、実は『不完全な神』が作ったためである、との説もある。そのテーゼを提示したのは、キリスト教の一派或いはそれと並行して3〜4世紀頃地中海世界で成立した『グノーシス主義』である。この思想においては、迷妄や希望的観測を排し世界を俯瞰した場合、この宇宙は「善の宇宙」などではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。(グノーシス主義の「反宇宙」論) このグノーシス主義では、『旧約聖書』においてヤハウェと名乗って傲慢で愚劣な行為をしているのは、デーミウルゴスという「偽の神」「下級神」であり、その固有名詞を『ヤルダバオート』としている。そしてデーミウルゴスの世界創造が不完全な故に、この世界と人間は不完全であり、悪が充満しており、それは究極的に悲惨な崩壊を迎えるしかない、としているのである。 

 ここで、『人間が神を創った』と仮定し、何のために人類が神を発明したのか、『神の効用』について、まとめとして再度若干の考察を行ってみることとしたい。人間にとって『信仰を持つ具体的メリット』が厳として存在する事もまた事実であり、過去全ての(と言っても間違いではない筈である)国家や民族、部族などの人間集団が、何等かの信仰を持っていた事がその最大の証であるともいえよう。

 ○個人に対しては、その外的ストレスに対する安全弁として働く
その個人にとって、災害や疾病、あるいは一方的な社会的トラブルなど、自らの力ではどうする事も出来ない、対応/対処し難い何らかの『理不尽と思える事象』に対し、それが生起した具体的な理由付けと心的位置付けを行い、自己の心の中でそれを合理化する事によって、何とか心理的に消化する為の『触媒』として、神の存在はその効力を発揮する。
このことは、スピリットや天智森羅万象を直接感得しそれと一体化するという、所謂『宗教体験』とは別であり、この各人の心理的性向と、一部の人々が体験したとされている宗教体験とが社会の中で合成され、それが一般に言われている『宗教』となったと考えられるのである。

 ○社会に対しては、秩序維持の為のルール付けを行うための『規範』を設定する価値基準とし、社会を安定化させるための『ビルトイン・スタビライザー』として、或いは集団構成員の意識のベクトル合わせを行い、社会全体を動かす心的エネルギー集約の為の象徴として機能してきた。世界の歴史に於ける偉大な事跡やビッグイベント、巨大建造物など、宗教的エネルギーに突き動かされて為された結果として存在するものが多々あるのもまた事実なのである。(神様が見ているから、悪い事はしてはいけない。/神様に感謝をささげるために、盛大な祭りを執り行い、また巨大な神殿を作り上げよう。/そして、神の栄光のために悪しき敵を打ち滅ぼそう!)
 結論として、人類社会は宗教を、『個人と社会の双方に取り有用なものとして発明した』のである。 既存の宗教活動とは、人類精神が成熟する過程における一種の通過儀礼の如きものであるとも言えるかも知れない。
これは、言語能力が全ての人類に備わっていると同様に、人間の生態的特徴の中に、何らかの形で基本的に(遺伝子レベルなどとして?)備わっているものであるとする事が出来よう。つまり、人間は言語を発現させることが可能な一連の遺伝的能力と同様に、宗教行為を発現させる基本的な能力をも持っており、心理モジュールなどの発現を介して、それを発揮してきたと考えられるのである。 人類はこれらの能力を、人として進化してきた過程の中のいずれかの段階で獲得したと思われる。 『ゲーム理論』の最近の成果から導き出される結果によって、つまり『やさしい情智』(群内におけるパレート改善を実現するための提携行動を取る傾向)を持つ個体群が個体及び自己の所属する遺伝子グループの存続に有利であったから、と言う理由だけでは、世界中のあらゆる場所で人類が何らかの宗教を持っている、と言う理由付けにはならないはずなのである。人間の持つ、『利他的行為』を是とするメンタリティと、宗教行為とは、また別の次元のものであると考えるのが正解であろう。やはり人間は、個人と社会の安定と発展のため、必然的に『宗教を発明した』のである。人類が行う合目的行為は、それが純粋に物理的に合理的即物的なものである必要は無かったのである。その行為を行うことによりもたらされる高揚感や精神的充足は、それが他者から見て一見無用無価値な行いであっても是とされて来、また賞賛されてきたのである。やはりそれが『人間の文化/文明』というものなのであろう。
 こうしてみてみると、過去の人類史において宗教や信仰の果たして来た役割は大変大きいものがあり、特に『科学的手法』を獲得する以前の時代にあっては、人間が文明を進歩させ歴史を進展させて行くための、大変大きな精神的バックボーンにも度々なってきた事もあったというよう。 人間の歴史は、まさに『食料』と『欲望』と『神』に突き動かされて進展してきたといえるのである。 諸々の文明の盛衰は、気候変動などによる植生の変化とそれに伴なう食料事情の変動により生起し、また他の文明への憧れや、貴金属資源、交易品、そして植民地化による資源の収奪、そして、自らが信ずる神の栄光を広め、その信仰を拡大せんとした、諸々の動きの集大成なのである。
また、先述の『心理モジュール理論』に依って見るならば、人の持っている心理モジュールは、一説によると数百〜数千程度あり、人間の行動の大半はそのモジュールの応用と副作用の結果であるとされている。 であるならば、この『宗教活動』についても、やはりその一つの表れとも推定が可能なのである。 つまり『精神を安定させ、ストレスを軽減させる為のモジュール』が稼動した結果である、とも言い得るのである。 人間の宗教/信仰については、人間の基本的本性の一つに根ざすものであり、21世紀に生きる我々として、『その効用と限界をきちんと認識』しておく必要がある、と考える。


☆『宗教体験』について
 上記の論は、主に人間心理の面から宗教の発生要因について考察してきた。 しかしこれが、人が宗教する条件の全てであるというつもりはない。 過去の、特に世界的に大きな勢力を持つ宗教の創始者あるいはそれに匹敵する人達は、多かれ少なかれ何らかの『宗教体験(あるいは神秘体験・超常体験)』をし、それが切っ掛けとなって宗教を創始したり教義を作り上げたりしているのである。後述する『トランスパーソナル心理学』の見地においても、スピリットとの一体化などの体験を認めており、宗教の成立と存在は、単に『生物としての人類が環境に適応するための心理行動』のためだけではないとも思われる。
トランスパーソナル心理学の論者にしても、『個我を超えた存在』『一なる存在』という『スピリット(概して大文字で記述)』を想定しており、これは仏教思想でいう『梵』(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と同義であると解釈でき、自我とそれらとの一体化体験を彼等が重視していることを示している。(仏教用語で示せば『梵我一如の体験』となろう)
 これらの宗教体験の示すところは、とりもなおさず森羅万象との一体化であり、もしそれが可能であるならば、すべての人間が、自らと森羅万象との一体感を感得/体得すべきであろう。しかし現実にはこういった宗教体験/認識を経験した人はごく限られており、その宗教体験を感得できた人間はほんの一部であると思われる。
しかし一方で、人間はまた理性を持っており、理屈としてそれを論理的に認識する事は可能である。万人が納得できる何等かの理論付けがなされるなら、人は理性によってそれを認識することが可能なのである。
 人の脳は右脳と左脳とに分かれており、それぞれ違う働きを持っている事が最近分かってきている。そしてその人間の肉体もまた自然の産物であり、自然の摂理として、理論(左脳)と感性(右脳)のバランスが大切だという事であると考えられるのである。『スピリット』や『梵』を直接感得する(右脳)努力と同時に、それを哲学的思想的に理論付けする(左脳)ことの両方が、人類社会全体が新しい認識を獲得するためには重要だと思われる。
(ただ現在の『既存宗教』については、一人の卓越した人物が(右脳で)感得しそれを直接教えとして広めたものを、後世の弟子達が(左脳で)理論付けして教義として成立させたものであり、本来それらのバランスが必要であったものを、一面の見方として教団の勢力拡充のために左脳優位に持って行き、現世利益の実現の為に利用してきたとも言えよう。)
そしてそれを理論付けするのに最も相応しい思想体系としては、絶対座標軸の存在を是とした従来の一神教思想ではなく、存在の全てを相対的なものとする仏教思想を採用する事が正解と思われる。 現代科学の精華である宇宙論や相対論の成果などとの比較においても、一神教よりも(大乗)仏教思想の方が、整合性が高く、より納得の行く理解が得られると考えられる。哲学思想としての仏教を、今こそ見直すべき時ではないか。

 過去数世紀にわたって、科学的手法と科学的思考方法を獲得し、身に付けた筈の人類社会も、21世紀を迎えてその影響力も地球的規模で拡大してきた現在、いつまでも過去の宗教思想に囚われていて良いのであろうか。人類の持つ宗教とは基本的に自己のアイデンティティ確保、そして精神の保全と安定を図る為の云わば『避難所』であり、人が外環境に対して積極的に関与しその進展を図ろうとする行為ではないはずである。つまりあくまで基本的に『レベル1』の心理なのである。本説においては、人間の持つ宗教や信仰の根本的意義は、自己の精神の安定を保持し充足を得るための精神的活動の結果であり、その基本的手法は『人間精神の原初状態への回帰』即ち、何らかの優位者を仮想して己の精神を『レベル1』の状態に置き、外環境よりのストレスから自己を防衛する、という心理作用を行った結果である、想定している。
 なぜ21世紀の現代においても、人は宗教に頼ろうとするのか? 現代科学の最先端を行っている筈のアメリカにおいても、その大統領演説の中に、『神』という言葉が時には数十回も繰り返し使われるのであろうか。人が謙虚であり続けるための証しとしての発言なら結構なのであるが、その後に『十字軍』などと続けられるのをみると、何をかいわんや、である。
 また一方では、キリスト教やイスラム教の『原理主義』の復活が言われている。情報化社会を迎え、種々様々な情報や思想に触れることの出来る時代において、なぜ数百年以上昔の『純粋な』宗教思想に回帰せねばならないのだろうか。逆の見方から言えば、現代社会において普遍とされている『西欧式の民主主義社会』に対して、魅力を感じていない、若しくは失望した或いは裏切られた結果、人々は宗教原理主義を選択せざるを得なかったのではないか。確かに現代の国際ルールは、公平且つ公正な民主社会を目指している。しかしそれは『誰のための』社会なのであろうか。現在アメリカなどが提示している欧米型社会については、様々な課題もあり、また一部の国や企業、集団の利益を優先しがちであることも事実である。
しかしその最大の課題は、その民主社会なるものが、『あるべき社会』を具体的な形で示し得ていない、というところにあるように思われる。 度々の繰り返しとなるが、あるべき社会において人は何を基準とし、どのように生き、何を目標にすればよいのか、という『人が生きるためのよすが』を、今のところどの政治家も思想家も示し得ていないのである。
 現代の思想は、『神様』(実際には人間の宗教家)がかつて人間に約束した以上に魅力的なセオリーを、提示できていないのである。 民主主義は確かに共産主義思想との競争には勝った。しかしマルクスらが提唱したそれら一連の思想には、例えそれがペテンに類するものであったとしても、一時でも人々を熱狂させる何かが存在していたのである。特に他の何者かによって虐げられた状態にあった人々に取って、『暴虐の鎖を断ち』『一方的な搾取からの開放』を高らかに謳った共産党宣言などは、大変魅力的な思想に映ったのである。だからこそ、人類は熱病の様に数十年にわたってそれに心酔したのである。しかし、その熱病からさめた今、現代の人々にとって新たな『拠り所とする思想』はいまだに現れていないのである。『民主主義』は、かつての共産主義ほど華々しいプロパガンダもなく、然程魅力的ではないのであろう。そしてまさにその為に、何百年も前の『ピュアな』思想に、人々は回帰せざるを得ないのである。 今の人類に取って、次のきたるべき時代について、それを担う具体的な思想を明示することが何より求められているのである。 人類が、宗教という心の処方箋を脱却し、その副作用から開放されるためには、全人類にとって普遍となる新たなものの考え方を提示することが急務なのである。

◎共産主義思想と宗教
 過去、一連の『共産主義者たち』は宗教を『人類の麻薬』と位置付けた。そして共産主義社会こそ人類が到達する究極の社会である、と断定してきた。しかし、歴史が示す通りこのマルクスに端を発しエンゲルス/レーニンと続いた思想は、共生の方向にある人類社会に対して、被害者意識に基づく闘争を思想のベースに置くという根本的矛盾を内包していた為に、世界を東西に二分した冷戦構造も百年も経たないうちに崩壊してしまった。やはり、2000年前にキリストが喝破した如く『人はパンのみにて生くるに非ず』ということであり、経済思想のみによって人間の本質を網羅する事には、無理があったのである。 (聖書では、それに続いて『人は神によりて生きる』と記されており、人間という存在を表すには、物心両面からの見方が必要であることが示されている)
このマルクス主義的発想−所謂社会主義/共産主義思想−に関しては、一面の見方として、先述の如く基本的に『被害者意識を根本に置いた発想』であり、この考え方は人間の活動を経済活動に特化して、搾取/被搾取の関係に置き、絶えざる闘争により本来の人間自らの権利を奪還する、という論法であり、これを改めて発達心理学の見地から演繹して見た場合、やはり『レベル3』の段階の思想であると言えよう。
20世紀後半の社会主義政権の停滞と崩壊への反省を踏まえ、それに立脚した新たな、人間の本質に基づいた社会思想などが提唱されたという話などは今の所聞こえてこないが、将来的に、『被害者意識に立脚しない』新たな社会主義を志向する思想が提示される可能性は十分存在すると思われる。そしてそれは、『レベル4』の互恵的な思想である筈である。
これら、共産主義思想と宗教との共通点を敢えて探すとするなら、それらは共に『きたるべき社会の代用品』を一時的に人間に提供したものである、と言う事が出来よう。 双方の当事者にとっては、些か不愉快な表現となるやも知れないが。


☆人は全ての宗教を否定できるか?
 『人は宗教行為から卒業できるか?』というテーマについては、宗教の本質に、人間の遺伝的要素に起因した心理モジュールにビルトインされた、外環境からのストレスに対する心理的防衛機能という一面があったとしたら、その実現は大変困難であるのかも知れない。 宗教というものが、人間が自分で発明した生活ツールであったとしても、大半の人々がそれに縛られているのが現状なのである。 『困ったときの神頼み』という表現があるが、自分が困難な状況に置かれたとき、全く神仏に頼らずに済ませることの出来る人は余りいないのではないか。いざとなれば人は弱い生き物であり、そしてまたそれを殊更恥じる必要は無いはずである。
 しかし我々個人個人が、より大きな存在 − 森羅万象・ガイア・(大文字の)スピリット・梵(ブラフマン)・いのちのつながり・あるいはそれらを包括した全て − に『生かされている』という意識を持つことが出来、それとの一体感を感得することが出来るなら、それは一面可能となると思われる。 この存在体系に対するダイレクトな認識は、既存の特定の宗教に偏ることなく得られるものであり、かえって各宗教の教義やしきたりがそれを妨害している場合も存在するのである。既存の宗教から脱却し、いわば『無神教』的境地に立つことこそが、現代人には必要であるとの論も存在する。(『人類は「宗教」に勝てるか』 町田宗鳳 NHKブックス)
彼の論じている『無神教』については、宗教が自己否定という洗礼を受けた後に復活してくる真の宗教であり、『無神論』とは違うものである、としている。無神教とは『神仏の姿が消えてしまって、われわれの体内に入り込んでくることである。それは神仏を礼拝したり、論じたりすることもなく、神仏と共に生きていく生き方』『神の出番はなくなった、という立場』のことであるとしており、ケン・ウィルバーが述べている『統合宗教』と同様の概念を提示している。

 しかし人間社会が、神仏を礼拝する形での宗教は卒業したとしても、『この存在体系に対するものの見方や考え方』『人の生き方や人生に対する基本的スタンス』について、人は何らかの基準や規範となる座標を求めるものである。科学万能とされている現代社会において、『宗教の死』などとともに、種々の既存の精神的規範が失われている今だからこそ様々な課題が生じている訳であり、人類が今後のきたるべき社会を実現させるためには、人間精神が持つべき行動規範や存在への認識を明確にし、人間社会全体としてそのコンセンサスを得る必要があろう。そしてその為には、『感性』と『理論』のバランスが必要となると思われる。
 自然の産物である人間の肉体は、その当然の帰結として感性(右脳)と理論(左脳)のバランスが大切だという事なのである。 天地自然のいのちやスピリットを直接感得する(右脳)ことと同時に、それを哲学的に理論付けする(左脳)ことの両方が、人類社会全体が新しい認識を獲得するために重要だと思われる。 人個人個人が森羅万象を感得する感性を保持する努力とあわせ、自らが存在することの『理』 − レゾン・デートル − を、理論的に認識する必要があるのである。

そしてその中で、その理論付けに最も相応しいと思われるのは、先述の如くやはり仏教思想(宗教としての仏教ではなく、哲学としての仏教)ではないかと思われる。 人が人として在ることを確認するための思想体系として、絶対座標軸の存在を是とした従来の一神教思想ではなく、存在の全てを相対的なものとする仏教思想を採用する事が正解であろう。
 しかし、人間は宗教体験や神秘体験などを経験し、自らがそれを感得しない限り、全てのつながりを納得しえないというものでもない筈である。自分の頭で理解できることであればそれを認識でき、自らのその後の行動に反映させることができる筈である。 もちろん、大脳生理学的に見るなら左脳で理解し、右脳で認識できるならそれがベストであるが、しかし先ず左脳で理解するところから入り、それを実践してゆく過程で、右脳的にも感得できる、としてもよいのではないか。 むしろ大半の人たちはそのレベルであると思われる。

※仏教的な見地で考えるならば、過去の一神教思想などについても、それにはそれなりの存在意義があったこととなる。キリスト教にはキリスト教なりの、イスラム教にはイスラム教なりの人類史において果たすべき役割が厳として存在していたと考えられるのである。森と水の民にはその環境に相応しい思想が、そして砂と平原の民にはその環境に適した教義が必要だったわけであり、そしてそれらの全ては真実をもとにした『方便』であり、(これは、宗教としての仏教もまた然りである)その存在意義ゆえに生成し発展してきた。 これまで人類が発明し、また帰依してきた宗教の全ては、真理の中から出でた諸々の方便の一つであるとする見方もまた出来るのである。



    



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