第七章 : 離陸『後』の人類社会について


第七章 : 離陸『後』の人類社会について

 人類社会が『レベル4社会』を実現し、世界の調和と共存が実現した後の社会についての考察については、一部SF的なニュアンスでの考察ともなろうが、『種』としての人類というものの本質を考える上で必要な事である。 人間自身が自分達を、この宇宙という存在体系の中で、どの様に位置付け、どの様に規定するか、ということと密接に関わってくるのである。『人間の終り』は、いかなるレベルにそれを置くのかが問われる。哲学的には勿論、生物学的にも社会学的にもその命題は常に人類と共に存在している。 この議論の大前提として、果たして人類は、『社会的成人を迎えた』段階でゴールを迎える、つまり種としての成長を終えてしまうのか?という問いにどう答えるか、ということである。 人間の可能性を、もっとより高い次元に見ることができないか、別の観点から簡単に考察してみたい。
筆者は、『レベル4社会』が実現した後、やはりその次にまた新たな波が訪れると想定している。 その社会を仮に『レベル5社会』と呼ぶ事としたい。 そしてその流れは余り遠くない将来において実現すると考えられるのである。


☆レベル5社会について
ここでは仮に『レベル5社会』と命名したが、その定義については単に『レベル4社会』の次に来る社会のことを言い、その到来については、レベル4社会の実現と継続が前提となる。 レベル4社会との差異については

 ○レベル4社会 ⇒ 個々の人間とその内環境(社会)や外環境(森羅万象)との究極的な調和が果たされた社会
 ○レベル5社会 ⇒ 人類社会内部の調和と共存が実現していることを前提とし、より積極的に外環境に働き掛け、他の生命(それが地球上或いは他の星々に存在しているものであっても)の生存と進歩進化の助長を志向する、森羅万象に生息する全ての生命を自分達と同類とみなし、共に手を携えてゆく意思を持った社会 と規定できよう。 つまり、仏教思想(大乗思想)における『衆生済度』の考えに近いものとして理解が可能である。

 レベル5社会の根幹は、究極的な『利他主義』を貫くことであるといえよう。 仏教思想の深化の中で見てみた場合、原始仏教から大乗仏教へ移行する中で、個々の人間が解脱した後においても、涅槃の境地から現世へ帰還して、他の者の精神進化を助長する、衆生済度を実践する、という考えが生じている。 その思想は、華厳経中の『普賢菩薩行願讃』に、より明確に記されており、また『さとり』という言葉の中に、衆生済度の意思も含めているのである。(現代語訳大乗仏教5『華厳経・楞伽経』 中村元)

 そしてそれを実現するためには、人類は種としての限界を自らの手で打破せねばならないと考えられるのである。なぜなら、生物学的に見て、依然として不完全且つ不安定な存在であり続けていたのでは、より広範な宇宙的見地に立った、継続した物の見方考え方が不可能であるからに他ならない。人類は現在のところ、自らの種としての限界に依然縛られているのである。そして人間が自然のままの進化をこのまま待っていたのでは、自らが巻き起こした変化のスピードに対しては、全く遅すぎるのである。人が数百万年の歳月をかけて獲得した『知恵』は、何の為の知恵なのか!そしてその知恵を何に使うべきなのか?について再度考え直す必要があろう。

 はるか未来において、人類が到達するであろう社会のありようについては、古今東西のSFなどにも幾多描かれて来た。 そしてその中の優れた作品において共通したテーマとして挙げられているのが、人類の『生物学的限界』をどう乗り越えてゆくか、という課題である。 筆者達は異口同音に、遺伝工学を手にした人類がこのままずっと『未完成な頭でっかちなサル』として存在してゆく事が果たして正しいことであり、人間自身にとって本当に幸せな事なのか、という問いを投げかけている。
森羅万象の中に生きる人類においては、その自らがなせる業も全て自然に起因したのもの、という思想で見るなら、人類が自らの意思で自らの生体を変革してゆくのも、自然の進化の先にあるものとして捉えることが出来ると考えられるのである。人類が、トータルとして社会的なコンセンサスを得た後に、人間自身の体を、より高度なものに作り変えて行く事は大いに考えられることである。


☆『人間が変わってしまう』ことに対する危惧について
 アメリカの政治経済学者、フランシス・フクヤマはその著書『人間の終り (Our Posthuman Future) 』で、バイオテクノロジーなどの進歩によって、人間自身が変えられてしまうことに対する危惧を述べている。 彼は『歴史の終わり』以降の“歴史の流れ”について、『科学の終りが無い限り、歴史の終りもない。』と述べ、また『現代の資本主義的リベラル民主主義が成功しているのは、人間性について他の政治制度よりも現実的な仮定に基づいているからだ。』とも語っており、民主主義の下での科学技術の発展や、“人間性”というものについて肯定的な見解を取っている。 しかし一面で、バイオテクノロジーの進歩とその応用に関しては、『人間としての本質を自ら変えてしまいたくない』ために、それらの影響から人類を守るべきである、とも記しており、彼の考えの根底にあるものとして『人間本来の性質というものの統一性や持続性と、それに基づく人間の権利も守りたい』また『人間本来が持つ“X因子(Factor X:人間が人間であるための本質的な要素)”を守る』としている。

 彼の持つ不安や恐れもまた、人類に普遍的なものであると思われる。 我々自身の子孫が、『人間以外の何か』あるいは『未知なる何者か』に変わってしまうことに対して抵抗を覚える事はやはり当然であろう。 しかし『人間が人間でなくなってしまう』ということには、前提として『人間とは何か』という確とした定義が必要な筈なのである。 そして人類は未だにその本質的な定義を確定することが出来ないでいることもまた事実なのである。 恐らく有史以来、ずっと自らに問い続けてきたこのテーマに対する回答についても、そろそろ具体的な(当面の)回答を出さねばならない時期が到来しているのである。

 人間には、本質的に『未知なるもの』に対する無条件の恐れが存在し、そしてそれは自らが『未知なるもの』になる事に対しても同様である。 それ故、これらの考えに対する心理的な葛藤の存在は十分理解できる。しかし今後人間社会は、好むと好まざるとに関わらず、その変革の方向は必然的に、種としての人類自らに向けられることとなるであろう。なぜなら、『もうすでに時は満ちかけている』のである。現代の人類は、DNAで規定された生物種としてのホモ・サピエンスと、『人間』というものとを区別して考え、『人間性/人間の本質』というものについて、より大きなくくりで再定義を行なうべきときなのである。

 すでにそれを予測している未来学者も存在する。
先述した未来学者のアルビン・トフラーは、2007年1月のNHK新春番組『未来への提言スペシャル』において、田中直樹との対談の中で、21世紀の定義についてこう述べている。
 “21世紀とは『人間の再定義( To re−difine HUMAN )』の時代である
続けて彼は、それが実現するための条件として、ナノテクと生物学、遺伝子工学の発達とその成果が必要である、と規定している。 彼もまた、彼が“第三の波”と呼んだ情報革命の次に来るものとして、『種としての人類そのものの変革』を予測しているのである。 (先述の如く筆者は、人類の再定義の時期は、情報化社会の次に来る社会の、その先であると考えているが)


☆『人間』というハードウエアの限界を超えて
こうして具体的に考察してみると、今後の人類の辿る道は、今までの様な、何らかのテクノロジーの進歩や社会システムの発展というようなソフト面での改良は既に限界に来ており、今後は、人間自らの“ハードウエアとしての限界を超えなければならない”段階に来ている、ということである。

 一般的に、人間の『思考する速さ』は光速以上である、と言われている。勿論これは比喩的な意味であり、人間は一瞬のうちに百億光年の彼方に思いを馳せる事が可能であり、また遥かな過去や未来のこともその掌中の事として思い至らせることが可能であるという事を言っている。 かつてJRが、新幹線の『超特急ひかり』以上に早い、超々特急のネーミングを、『光より早い思考のスピード』にちなみ、『のぞみ』としたのは有名な話である。

 しかし、実際の人間がその頭脳で考える速さは、意外と遅いものであり、原理的にニューロンの伝達速度以上ではないのである。脳内のニューロン束の伝達速度は、秒速1.8〜12.0m程度と言われており、一方、人間が作り出したコンピューターにおいては、そのCPU内部でのスイッチングは光の速さの電流により、ピコセカント単位で行なわれているのである。単純にスピードのみを比較した場合、全く話にならないレベルとなる。
導体を通る電流によってではなく、主として有機物を伝わるイオンの流れにより形作られる脳のネットワークは、その『ネットワーク』という形式故に、一瞬で物事の概念の把握等が可能なのであり、基本的に単一回路を使用したCPUチップとは原理的に全く違い、これらの有機ニューロンネットワークと、無機シリコンチップとは動作原理はもとより、その回路構成も全く異にしている。

 しかし若し、人間の頭脳の情報伝達の機能を、イオンの流れによるものから導体を流れる電流に置き換え、またニューロン間の伝達をこれも神経伝達物質のやり取りから、例えばスイッチング回路等に置き換えることが出来るなら、人間の思考速度は、飛躍的に高まることとなろう。 また、全身の神経についても同様に置換する事が可能となるならば、少なくとも人間の思考や行動の速度は、今の十倍以上に加速することが出来ると思われる。 もちろん、それに対応する筋肉組織や骨組織などが必要となろうが。
我々は現実に光速で『思考する』道具を所持しているわけであり、人間の『外部思考装置』であるコンピューターの演算速度が、人間とは桁違いのスピードで行なわれている、という事実から、それを(別の方法となろうが)将来的にはそれを我々自身に当て嵌める事は必然と思われるのである。 人類が自らを『改良』してゆく方向としては、病気の克服や遺伝的課題は当然のこととして、その次の段階としては、特に思考能力とスピードの向上がテーマとされることは、『ホモ』(知恵ある)・サピエンスとしては当然の帰結なのではないだろうか。
過去、この類の話は純粋にSFの分野であり、一つの思考実験としてのレベルでしか捉えることが出来なかった。 しかし現在、まさにトフラー氏が言うように、ナノテクノロジーと遺伝子工学(そして一部はサイバネティクスも必要となるかも知れない)の技術により、種としての人類の見直しと改良が可能となり、それが現実的なものとなりつつある。 そして今、この現実を『粋人の戯言』としてしか捉える事の出来ない人たちは、つい百年前に、『空気より重いものは空を飛ぶことが出来ないと科学的に証明した』一部の科学者と同様の事となってしまうであろう。 彼等は、数百トンもの重量のジャンボジェットなどが何百機も大空を飛び交う現代社会をどう見るであろうか。

 もちろん、先述のごとく我々自身を『改良』してゆくことに対する感情的反発、或いは心理的な戸惑い等が根強く存在する事は事実であり、様々な議論や紆余曲折が生じるのは世の常であろう。現代でも、遺伝子組み換え作物などに対する漠然とした不信や不安は、国や民族を超えて存在している。先述のフランシス・フクヤマの危惧などは当然の反応なのである。しかし人間は、@それが自分自身にとって有利なこと であり Aリスクに対してメリットが大きく Bそれを行なうことが可能 であれば、『いつか、どこかで、誰かが、必ずそれを行なう』のである。
 しかし、物理的にそれが可能になったからといって、ソフト面においても十分に考慮する必要があることもまた事実である。人間の思考のスピードが仮に十倍に加速されたからといって、生活してゆくために働かなければならない時間もまた十倍になってしまったのでは、全く意味の無いことである。 100年の寿命を持つ人間の思考速度が10倍になれば、その人は過去の人間1000年分の人生を生きる事が出来るようになる訳であり、それをどう活用してゆくか、どう生かせる社会を作り上げてゆくか、という事も今ひとつの大きなテーマとなる事は必定であろう。

 また、このような形で人間の能力が拡大すれば、人類はこの地上において、肉体的にも最強の生物となることが出来よう。 ごく普通の人が、例え山道でアラスカ熊などに遭遇したとしても、自分の身を容易く守ることが出来るはずである。普通の地上の生き物より遥かに早く反応し、敏捷に行動できる人間に対し、害を及ぼし得る生き物は殆ど存在し得ないはずである。 そしてそうなった時に初めて人類は、本当の意味で周りの全てに対して『優しくなれる』のかも知れない。
 人類がこの後、ひとつの『種』として、文明を保持しそれと共に進化発展してゆく過程において、自らの現在の生物学的限界を正しく認識し、十分な熟慮とコンセンサスを持って、それを克服してゆくことは必然の過程ではないだろうか。 そしてその時期は、遠い未来のことなどではなく、比較的近い将来のことと考えられるのである。 我々人類が、生まれ育った地球とその環境“ガイア”と今後も良い形で共存して行くためには、『頭でっかちになりすぎた割りに、思慮分別の足りない』今のままの姿では、その長期的なビジョンを描くことはやはり難しいと思われる。 人類自らが獲得した、『自らの手で自らを変えてゆく能力』を駆使する事をためらう必要はどこにも無いはずである。なぜなら、人類自身もまた『自然の産物』であり、人間が獲得した『知恵という能力』もまた必然的に自然の産物だからである。

 そしてまた忘れてはならないのは、それら人類の進歩というものは全て、一つ一つの積み上げにより実現する、ということである。 今後も、“農業化社会”は社会基盤として必然の要素であり、“工業化社会”もその成果としての豊富な工業製品を人類に提供し続けることが必須であり、また情報化社会の成果である“ユビキタス社会”の実現が無ければ、人類全体がその次の社会に移行する事は不可能である。先述のごとく人類は、今現在実現されつつあるユビキタス社会において、自らの精神的成熟を完遂する事を最終的に求められている。そしてそれら全ての基盤に立脚した上で、はじめて人類はその次のステップに踏み出すことが出来るのである。
 もし仮に、一部の人間のみが遺伝子工学やナノテクの成果を享受し、他の人々に対して圧倒的な優位を生じた場合、そこに発生するであろう社会内部の軋轢と混乱は、想像を絶するものとなるであろうことは容易に推測できよう。 人間の誰も、自分よりずっと頭の回転が良くて敏捷で強靭な、改良された他人の存在を認める事は不可能なことである。 故に、人間そのもののハードの変更を伴う人類の次の段階への移行は、必然的に、全人類のコンセンサスと参加が必要なのであり、それを実現する道は、種としての人類の精神的成熟が大前提となるのである。

 人類の“レベルアップ”は、よーいドン!で、一斉に(遅くとも数十年間のうちに)行うこととなろう。 本格的に人間が宇宙に進出し、種として一人前の知的生命として存在するためには、こうしたブレークスルーが必要となるはずである。 一部のSFや、テレビドラマ、アニメ、映画などに登場するが如くの、鈍感で反応も遅く、他の生命体と無意味に“ドンパチする”ような、ましてや身内で仲間割れしたり戦争したりする様な、今のままの人類では、『知的宇宙生命』としての資格は全く無いのである。
人類の進化の方向は、やはり『100%自然な生物学的進化に任せる』のではなく、人間自らの意思により自らを思う方向へ変え、拡大してゆくこととなると思われる。 より具体的には、『地球に生を受けた知的生命』という人間としてのアイデンティティは基本的に変えず、その自己認識を持ったまま、宇宙のあらゆる環境に適応してゆく方向になるであろう。 そしてそれは、先述の如く生命工学的手法により実現が可能となるのである。 決して自らの体を『機械に置き換える』などというレベルではなく、究極的には炭素−酸素系生命としての枠をも超え、或いは、『物質』というレベルにも囚われず、宇宙空間から恒星の中においても『生命』として存在しうる形態となるやもしれない。 それはいつに、人類自らがそれを選択するかどうかにかかっている。そしてその段階に於いては、人類とその社会と外環境との関係は、今よりもより親密に、より良く、よりアクティブなものとなるはずである。



    



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