第四章 : 人間社会の進展のプロセスについての考察


第四章 : 人間社会の進展のプロセスについての考察

 今後の人類社会の進展を考察するにあたり、ここで先ず、過去の人類がどういう道を辿って進化して人となり、文化を育んできたのかというところから考えてみたい。 つまり、『旧きを訪ねて新しきを知る』ということである。

☆ヒトが人になったプロセスについて
 過去の歴史において、人類そして人類社会は、どのような精神的発達のステップを辿ってきたのであろうか。 人類が類人猿と呼ばれていた時代から今日までの、その大まかな流れをあらためてここで考察してみたい。
 現在の古人類学において、過去人類が辿ってきた進化の道筋は、ほぼ明らかになったといわれている。
サルから人類の祖先が分岐したのは、今から500万年以前といわれている。そして最初に二足歩行をしていたと考えられているのは、約580〜440万年前のラミダス猿人だとされている。その後、アフリカ大地溝帯に約350万年前に住んでいたとされる『アファール猿人』につながっていったと言われている。1974年にエチオピア北東部で発見された『ルーシー』と命名された化石人骨の分析から、彼等は二足歩行を常態としていたとされる。そして、330〜240万年前にアウストラロピテクス・アフリカヌスに進化した。この属からパラントロプス属と最古のホモ属の種であるホモ・ハビリスが進化したと考えられている。その後、150〜200万年前にホモ・エルガスターに進化した。彼等は850cc程度の脳容量を持ち、体格的にも完成度が高く環境適応能力も高かったと推定されており、人類として初めてアフリカから他の大陸に進出し世界に広がっていった、と考えられている。ジャワ原人や北京原人(ホモ・エレクトス)は彼等の子孫とされている。 アフリカやヨーロッパの人類の祖先は、その後50〜20万年前にホモ・ハイデルベルゲンシスとして進化し、アフリカに残った人達の中から約20万年前に、現代の人類ホモ・サピエンスが生まれたとされている。 以上のように、人類の進化の道は現代ではほぼ解明されてきているのである。
 しかし一方、彼等人類のご先祖様が生み出した『文化』については、その脳の体積の拡大に比例して進歩してきたかと言うとそうではなく、少しづつ高度化はしてきたものの、250万年前のホモ・ハビリスの時代からずっと『旧石器時代』が続き、石器が急速に高度化多様化した後期旧石器時代となったのは、今から約5万年前の事とされている。人類は現生人類に進化した後もずっと、急激な技術革新は行なわれなかったのである。
 そしてその後一気に様々な『文化』が芽生えることとなった。この時代を境として、人類は自然信仰や呪術を広く行なうようになり、3万5千年前には最初の芸術活動も生まれ、絵画や塗装・彫刻も始まった。動物や女性を模った当時の彫刻が見つかっているが、その技術はきわめて高いとされている。そしてこれらの芸術は、当時の信仰や呪術と結びついていたと考えられている。

 なぜこの時期に一気に文化が開花し『人類文化のビッグバン』が始まったのか、という疑問に対し、各氏の仮説が提示されている。そしてその中で現在有力とされているのが、この時代になってはじめて人類は『言語』を持つに至った、と言う仮説である。 (チョムスキーなどの唱えている『言語遺伝子』の存在仮説)
 この『言語能力に関わる遺伝子』は、2001年にアンソニー・モナコ教授の研究チームにより同定され、『FOXP2』遺伝子と命名された。 その後の研究で、この遺伝子はヒト集団の中で600万年程度前から現在までの間に、アミノ酸変化が“固定”されたと考えられている。この短期間でのアミノ酸変化は、何らかの強い正の自然淘汰を受けたために、種の間に急激に広まったとされている。 この淘汰の要因として、それ以前に比べ、より洗練された相互コミュニケーション能力が獲得された可能性が高く、その有意性によって選択的淘汰が行なわれたとされる。
 そして、その変化が固定された時期は、言語と人間の行動様式の進歩との相関が考えられることから、約5万年前であったとも想定されている。 実際の解析結果では、この変異は少なくとも現在から過去20万年の間のいずれかの時期に定着したと示唆されており、その定着時期が、現生人類の『文化ビッグバン』の時期と重なる可能性が高いのである。
 これらのことから、やはり人類文化の劇的進化は、高度な言語能力の獲得という、自分の思いを相手に正確に伝達することを可能とする、コミュニケーション能力の飛躍的発展の結果であったという仮説の信憑性は高くなるのである。
 現時点で有効なデータを基に、ドイツの進化人類学者パーボ氏は、これらの変異が生じた時期にヒトはおそらく既に話すことの何らかの原始的な型を発達させており、FOXP2遺伝子の新たな変異(1つあるいは両方)によって洗練された明確な発音をするための新たな能力を得、これがおそらくは進歩した言語機能の発展における重要な最終段階に位置することを示唆している。 (http://www.appliedbiosystems.co.jp/website/jp/biobeat/ の記事より) ※現在注目されているこのFOXP2遺伝子群は、人の言語能力に関係するゲノムのうちの一つであり、全てではない。

 以上の説を纏めると、人類が情報を共有し蓄積するための一次手段として言語を獲得、発展させ、それによって文化や技術レベルが飛躍的に高度化した、という仮説が成立するのである。確かに、何等かの発明や発見がなされても、それをグループ内で共有化し全体に広め、後世に伝えて行く手段がなければそれは一時のもので終わってしまい、次の世代に引き継がれることは無い訳であり、人類文明成立の大きな必要条件として『情報の伝達と蓄積』が挙げられ、その為の手段として先ず『言葉ありき』であったという説である。言葉を通して人類は始めて夫々の持つ情報を共有し交換する事が出来、それによって『検証』や『演繹』が可能となり、それらの情報の持つ正確さや内容のレベルは幾何級数的に拡大する事となる。
 この説の正否はともかくとして、人類が獲得した『言語』は、古今東西の世界中のあらゆる地域のあらゆる民族に存在しており、継続して活用されてきた事は間違いない事実である。つまり『ヒトは常に言葉と共にあった』のである。この一見当たり前の事は実は大変重要な事であり、言語の使用という行為は、ヒトの『発明』ではなく、やはり『本質』のレベルのものとして見る事が出来るのではないかということである。ヒトはたまたま『いつかどこかで誰かが言葉を発明あるいは発見した』のではなく、人が人として存在するための『本質』の一部として、言語は存在してきたと考えられるのである。
 この、人類文化の成立と言語の獲得についてのより詳細な考察を本説として取り上げるつもりはここでは無い。ただ、ジュリアン・ジェインズが『神々の沈黙』で示した仮説、即ち“人類は文字が発明され普及を始めた歴史時代までは、主として右脳で思考し、直感的情感的にしか事象を認識できず、論理的体系的な思考は文字認識により左脳優位となって以降のことである”という説などは人類の思考能力/認識能力について改めて考えさせられるものであり、一考に値しよう。

◎二分心(biremeral mind)仮説について (ジュリアン・ジェインズ 『神々の沈黙』)
 彼の二分心仮説の概要は、『古代において人間は自我意識(主観的意識)を持っていなかった』というものである。 この仮説を是とするなら、過去の宗教的啓示などについても大半がこの流れで説明できることとなり、様々な宗教思想においても、哲学的思索に基づくもの以外の、特に『啓示宗教』の類は、過去の預言者たちの頭の中で生起した事となる。つまり、『ヤハウェ(エロヒム)の居ます所は、ヤコブの右脳の中』だった訳であり、同様にモーゼの右脳中にも居た事となる。
文明が発達する以前の人間は、『言葉』や『言語』の表わすボキャブラリーが少ない事が原因で左脳優位とはならず、それと右脳との機能分化が十分に行われていなかった為に、当時の人間の脳には現代人の様な自我意識は存在していなかった、と彼は推測している。そして彼の説に基づいて聖書等を解釈すると、ヨシュア記にある、ヨシュアのジェリコ虐殺などは、全て神の命令(神が異民族を全て殺せと命じた)により行なわれたとされているが、実際はヨシュアの右脳が命じたものだった、という事となる。 この事に代表されるように、ユダヤ教 ⇒ キリスト教 ⇒ イスラム教 という一神教の流れは、全て、モーゼ他の『預言者』たちの右脳から生じた事となるのである。
 この仮説が、キリスト教文明の元で育った人間から提示されていることは大変興味深い。 彼は、この二分心はその後の文字の成立と発達により、それと並行して人間が意識を持つようになり、その影響は次第に減少して行ったとしている。 彼によると失楽園の物語は、二分心喪失の物語として解釈が可能であり、また、イエスがやろうとした事の本質は、二分心の人間ではなく、意識ある人間のための宗教を当時の世の中が必要としたため、それに応える『理論的に体系立った宗教』を、彼が属していたユダヤ教を元に発明した、というものである。
彼は二分心仮説について、以下の様に纏めている。 (『神々の沈黙』後記より)
 @.人間の意識は言語に基づいており、意識と認知(知覚)とは別物である。
   意識の基本的な内包的定義について、『アナログの私が機能的な心の空間で物語化を行うこと』としている。
 A.意識に先立って、幻聴に基づいたまったく別の精神構造(二分心)があった。
   過去の神々や宗教の存在がその証左である、としている。 人間とは誰にもこうした幻覚を起こす遺伝的素地があり、おそらく更新世後期に進化してヒトゲノムに組み込まれ、その後二分心の基礎となったと考えている。
 B.意識は、二分心の崩壊後に初めて習得された。
   それはBC1000年頃に(中東において)生じた、比較的新しいものである。それにより、人は幻覚から開放された精神構造を持つようになった。
 C.大脳半球のウェルニッケ野に相当する部分が、二分心の拠り所ではないか。
   そして、認知力の爆発的向上により、人類文明は発展した、としている。
 彼の説は現在のところ定説となっているわけではない。しかしその賛同者も各分野にわたって多数存在しており、人間の自己認識についての様々な見地からの考察が、今後待たれるところである。

 また、別の面から人類の精神進化に対するアプローチも多数存在している。
最近、心理学の面からもこれらに対しての考察が行われており、『進化心理学』という一分野を形成している。
進化心理学とは、人間の心理メカニズムの多くは進化生物学の意味で適応であると仮定し、その心理を研究するアプローチのことであり、行動生態学や人間社会生物学、適応主義心理学などと呼ばれる事もある。
 ある心理メカニズム(例えば「怒り」)をもつ個体が、この心理メカニズムをもたない他の個体に比べて生存・繁殖の上で優位に立つ場合、自然選択の過程を経て、その心理メカニズムは種全体に広がっていくだろう、と考える。逆に、現在の結果から過去を推測して、ある形質が種内の全個体に普遍的にみられる場合、その形質は進化史の中で生存と繁殖の成功に役立つ何らかの機能を果たしてきたと考えるのである。この、『人の心とは生存や繁殖における成功を目標として自然選択により設計されたコンピュータであるという観点』は、実際に多くの心理メカニズムを説明出来ており、例えば家族や親戚関係のある側面については、血縁淘汰・包括適応度といった枠組みの中で説明され得るのである。
 このように、人間の心理メカニズムの一部が進化生物学の観点から説明可能であることは、一面事実であるが、人間の行動のどこまでが、進化によって獲得された心理メカニズムであり、どこからが学習により獲得された後天的な性質なのかに関して(いわゆる「生まれか育ちか」という議論)は、現在も活発な論争が続いている。
 以上のように、進化心理学の妥当性と適用をめぐっては現在も論争が続いている。しかし、ヒトは生物であり、生物のもつ形質の一部は自然選択により形づくられた適応であるという事実を受け入れるのならば、進化心理学的アプローチも当然受け入れる必要があるはずである。進化心理学が現在生み出している個々の仮説とその検証結果が全て妥当であるとは言えないとしても、進化心理学のアプローチそのものの妥当性には、十分な科学的根拠があると考えられる。 (ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋)
 そしてこの中での有力な論に、フォーダーの『心のモジュール』理論がある。これは、心の動きの同一性(各人の心理パターンの共通性)を扱うものであり、この考えは現在広く受け入れられつつある。 人間の心には、もともと言語・心理・生物・物理の4つの基本モジュールが備わっている、というものである。 その中の言語モジュールとは、人間がもともと脳内に持っている言語についての『基本プログラム』であり、人はたとえ言葉を教えられなくても、自ら言語を創り出す能力をも持っている、としている。また心理モジュールとは、人の心の動きや心理をおしはかる事の出来るプログラムがある、というものであり、これが欠損した場合が、いわゆる『自閉症』となるとされている。そして生物モジュールとは、人間は生来、生物とそうでない物との区別ができ、形として対象を判断するのではなく生物『全体』としてそれを認識することができる、というものである。物理モジュールとは、物体の物性についての基本的な認識が、学習によらず当初から備わっている、というものである。 これらの基本モジュールによって、人間は『生まれながらにして』生きて行くのに必要な複雑な様々な人間としての能力を発揮することが出来るとしている。
この『言語モジュール』の働きによって、人間だけが言語を学習し使いこなせる、という仮説が成り立つ。 つまり人が言葉を喋れるのは、身体的なハード面だけでなく、その心の中に言語モジュールが存在しており、これらが組み合わさり、ハード+ソフトではじめて言葉をしゃべれるという説である。この仮説に基づくと、人間の文化ビッグバンは、このモジュールを獲得した後に発生した事になる。(進化心理学入門 ディラン・エヴァンス/オスカー・サラーティ 小林司訳 講談社)
また別の観点から見た場合、最新の遺伝工学の学説では、遺伝子は人体の設計図ではなく指図書のようなものであるとされている。そしてその場合、それら遺伝子の発現の結果だけで、数百以上もの人間の心理能力を与える事ができるだろうか?ハードの指図書の中にソフトも一緒に組み込む事が可能だろうか?という疑問も提唱されており、したがってこの『心のモジュール』理論の是非についても、現在のところ定説とまではなっていない模様である。
※遺伝子とは『設計図のようなもの』ではなく『レシピのようなもの』つまり if〜 then〜 のプログラムの如きものであり、この遺伝子は、人間では約三万個程度(60Mbのデータ量)あるとされている。 そして同じDNAでも命令スイッチの入るタイミングなどの差により、微妙に違う何兆個もの細胞が生まれる。このことは、DNAは設計図ではなく『指図書』でなければ説明がつかないとされる。 また遺伝子はに拡張性があり、単独ではなく組み合わさったり、複数の箇所で働く事ができる。故に一つの遺伝子の変化が複数の箇所に影響を及ぼし、その増強効果は指数関数的であるとも考えられている。 (心を生み出す遺伝子 ゲアリー・マーカス 岩波書店 2005/3)

 この『心のモジュール』理論と、『言語遺伝子(FOXP2)』仮説について、そのいずれかが正しく他方が間違っている、というものではなく、実際にはこれらの仮説に示されているいくつかの要素が、過去のいずれかの時点で適度に組み合わされた結果、それらが起爆剤となって、人類の大発展が生じたと思われるのである。この五万年前のビッグバンが生起した要因としては、やはりそれまで個々に積み重ねられ準備されていた様々な要素(ゲノムレベルや社会レベルで)が、何かのきっかけで一気にシステム的に統合され、『文化』として開花した、とするのが正解と思われる。 物理現象でいうと、『過冷却』状態にあった水が、ほんの少しの刺激によって一気に全体が氷と化す、様なたぐいのイベントが生起したのかも知れないのである。
また一面の見方として、人が現在の地球上で唯一の知的生命である事は事実だが、その裏には我々のご先祖が、急激な文化の獲得などによって勢力を急速に拡大させ、我々自身の、種としての親戚を全て抹殺した(淘汰の結果としてではあるが)からではないか?生態学的位置付けが似ている種とは競合が発生し、その結果、最もトータル的に適応能力の高かった人類だけが唯一生き残ったと推測されており、ネアンデルタール人やホモ・エレクトスの絶滅も、人類との生態学的競合に敗れたためであると推測もされているのである。 そして我々人類は、過去の競争に勝ち残って現在繁栄していることを、当然のこととして見るのではなく、生き残った唯一の知性体として、彼等の後裔としての責務もまたその肩に背負っていることを忘れてはなるまい。

☆人間精神の歩み 発達心理学/児童心理学的見地よりの考察
 つぎに、ヒトが人となり社会を形成した後、その社会はどのようなレベル、段階を踏んできたのか、ということについて考察してみることとしたい。そしてその考察の参考となると思われるのは、人間の精神の発達過程、すなわち『発達心理学』や『児童心理学』で扱われている、人の心の成長過程である。そしてそれを、『反復説』を応用することによって、人類社会の進歩過程に適用してみることが可能であると思われる。
この、「個体発生は系統発生を繰り返す」と生物学で言われている『反復説』は、エルンスト・ヘッケルが唱えた、発生がその動物の進化の道筋をたどって行われる(系統発生)という主張で、生物発生原則とも言われている。つまり、ある動物の発生の過程は、その動物の進化の過程を繰り返す形で行われる、という。この反復説は、現在でも大筋では一般論として認められており、発生の過程が、その生物が辿った進化を追体験する形で行われる、とする事で説明できる現象も多々ある事は事実である。 (ウィキペディア(Wikipedia)を参考)
 この説から導き出されることとして、人間の『精神』もまた同様の道を辿るという事は考えられないであろうか。 そしてその逆を考えるならば、『人間社会の進化の過程も、また発達心理学の過程を辿る』という仮定が成り立つのである。
人間としてこの世に生を受けた赤ん坊が、幼児期、少年期、青年期を経て成人に至る、将にその精神の発達の過程を、そのまま人類社会の発展過程に重ねる事もまた可能であると思われる。 勿論、相当荒っぽい比喩であり、全てがそれで説明がつく訳ではないが、過去人類が辿った歴史の発展過程を見直してみたとき、一面その類似性は明白であり、基本的な流れとしての社会発達モデルとして、考慮してみる価値ありと判断する。
 (英語表現としての適不適についてはこの際無視願いたい)

☆発達心理学に基づく人間精神の発達過程    (図1)
  

 図1は、発達心理学で示されている、人間が幼児期から幼年期、少年期を経て成人に達するまでの、一般的な心の成長の過程を表したものであり、縦軸にYOUつまり外囲の人々との関係、横軸に自己に対する認識を図示したものである。 (この図は概念として示したものであり、上記の4つの段階は全てにおいて順序よくそのステップの通りに事が進展するというものではなく、実際の人間精神の発達過程においては、第一反抗期と第二反抗期の間には、比較的精神的に安定した時期をはさむのが常である。)

@幼児期(乳幼児期)
 幼児期においては、自分は人間としては何もできず、基本的な生活については全てその保護者(主には母親若しくは父親など)に負っており、それらとの意思疎通についても保護者からの一方通行的な要素が強い時期が長く、自己の生存の全ては、ほぼ一方的に自己以外の存在に負っている時代である。 その時代においては、自分は何もできない not OK な存在であり、それに対し他者 You については、何でもでき何でもしてくれる OK な存在として認識する。 自我意識が未発達なため、フロイトのいう『赤ん坊陛下』という表現の通り、文字通り「王様のように何でも思い通りになると信じている、非力な赤ん坊」の時期であり、この時期においては、基本的に自己 I と他者 You (主として身内などの保護者)との関係は、その全ての係わりが一方的であるが故に、ストレスは発生しない。 

A第一反抗期
 反抗期(negativistic age)とは、「自我の発達過程において、周囲のものに対して否定的・反抗的態度が強く表れる時期。」(goo辞書)とあり、その中で、自我が発達してくる三、四歳頃のそれを一般的に第一反抗期と呼んでいる。(「反抗期」という表現は、1950年代半ば頃より使用され始めたとされている)
 この時期においては、それまで他律的に行動していた子供が行動する主体としての自己を主張し始め、自我が芽ばえてくる。人は自己 I の存在を意識するようになり、自我の存在と自らの意思を認めはじめるがゆえに、親などの他者 You に対して、それを自分の意思の全てを受け入れてくれるわけではない not OK な存在として認識するに至る。 しかし一方で、自己 I については、いまだ十分に自我の確立がなされておらず、また自己への自信を持つまでにはなっておらず、依然として not OK としてみている時期である。 この立場においては、一面において他者を否定し衝突することとなるため、そこに様々な葛藤を生じ、そしてそれは本人に取りストレスとなる。
 人間の人格形成において、この現象は重要な意味を持つと考えられており、この過程を経ないと、知能、情緒、行動等に問題を持つ人間となる可能性が多分にあるという。ゆえにこの現象を内発性や自発性、自立など自我意識の芽生えとして捉え、当人の成育を図ることが重要であるとされる。具体的には、その子供の反抗が引き起こした親との衝突を必然のことであるとし、自分の意志を貫こうとする子供の身勝手な欲求を周囲の者が押さえつけ、これに反発することで反発する意志の力を育むのである。若し強い押さえつけがなければ強い反発も必要なく、強い意志も育たないということとなる。このように、一般的には第一反抗期への対処としては、強い命令と禁止による押さえつけが重要であるとする説も存在する。

B第二反抗期
 青年期は古くから「疾風怒濤の時期」とも呼ばれ、身体的な大きな変化と合わせて心理的不安定さがみられる。この自我の独立を求める青年期初期は第二反抗期と呼ばれている。知的発達においては、具体事象だけでなく抽象的思考が可能となる時期でもあり、自分自身の生き方について考え、また自己に対する他者の視点が気になりはじめる時期でもある。それまで外部に向かっていた意識が、自己への問いかけにより自我を目覚めさせ、周囲の大人達の保護や干渉、指導を退け、自己主張を行うようになる。 ドイツの発達心理学者エリクソンは、これら一連の心理的な動きに対し、それを自我確立のための作業であるととらえている
 この時期においては、特に自己 I の発達が目ざましく、より深遠な自己の確立を図ろうとするのが常であり、それに比べて、より社会経験の少ない段階での自己主張の未熟さや身勝手さによって、それが他者 You にとって受け入れ難いものであるが故に、その結果往々にして第一反抗期よりもより激しい衝突となる傾向にある。そしてその精神的未成熟とは裏腹に、肉体的には既に成人段階にあるため、その心身のアンバランスに起因して様々な影響を社会的にも及ぼすこととなる。勿論それらの社会に対する反発行為が全て悪いというわけではなく、そのエネルギーは往々にして社会変革の原動力となった事例も存在する。
しかし当の本人にとっては、他者 You との、より深刻な対立の時期であり、そのストレスは極大に達する場合が多い。
 本来、この時期を過ぎた人間はより精神的に成熟し、大人としての安定したメンタリティを持つようになるが、この段階において本人への動機付けが不足していたり、不適切な環境の存在などによって精神の成熟が遅れる、或いはなされない場合もある。速水敏彦の『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書 2006年)に述べられている『自分以外はみんなバカ』という副題に象徴的に示されている、「仮想的優越感」をキーワードとした現代の一部若者の心理に対する分析は、まさにこの第二反抗期のレベルから脱却できないでいる人たちの事を指していると考えられる。この傾向は同様に、フランシス・フクヤマが『大崩壊の時代』で述べているアメリカ社会の現状ともオーバーラップしており、現代社会における人間精神のひずみは、洋の東西を問わず同様に生起していると見られるのである。

C成人段階
 第二反抗期という「シュトゥルム・ウント・ドゥランク(Sturm und Drang)」の時期を過ぎ、他者との軋轢の中で、人は自己 I の存在のほかに、自己と同等もしくはそれ以上の他者 You の存在を認めることとなる。 つまりはじめてこの段階で、人は自己に対する相対的な見識を持つこととなる。第三者から見た場合、自己も他者も同一のレベルで存在し、相互に認知しあうことが可能となる。 他者或いは社会全体としての You に反発するのは、 I がそれを認めないからであり、それを自己と同レベルのものとみなすことが可能となれば、 I am OK and You are also OK! の立場を取ることが出来るようになる。
 この段階となって、はじめて人間の精神は社会的にもスムーズに受け入れられ、成人となる。そしてこの時期においては、自己と他者との関係においては、基本的には、不必要なストレスなどを生じる事はなくなる。

 上記の流れを図1で見た場合、人間精神の成長過程は、左上から左下へ、そして右下から最終的に右上へと進んで行くこととなる。 勿論、これらは概念として人間精神の発達過程を分類したものであり、全てのシチュエーションにおいて当て嵌まるものではないことは承知の上である。しかし先述の通り、人が幼児期から少年期、青年期を経て成人に達するまでの心の段階を解り易く示しているものとしてみてよいと思われる。


☆発達心理学に基づく人間社会の発達過程について
次に上記をもととして、人間精神の発達におけるそれぞれの段階と流れについて、それを『人間社会の発展段階』に当て嵌めてみることができないか、ここで検証してみることとしたい。
次の図2は、人間の集団としての『社会』が、どの様なレベルや過程を経て、進歩発展してきたか、そして今後進歩してゆくかについて考察したものである。

☆発達心理学に基づく人間社会の発達過程    (図2)
  

@レベル1 歴史以前  発達心理学の段階で言うと、人間の『幼児期』のレベルに該当する。
 この段階においては、ヒトは自らを、そして周囲の環境をありのままに見、ありのままに受け入れている。
自分、そして家族は自然の中ではちっぽけな弱い存在でしかなく、その日の食料の確保も不安定な状態であり、それに対して周りの環境は、その全てをそのまま受け入れざるを得ない巨大なものとして存在している。ヒトは自然に『生かされている』状態であり、このレベルにおいては、旱魃や氷河期などの自然環境の変化や、猛獣などの襲撃から自らを守らなければならないという精神の葛藤はあったものの、『自分』と『周りの環境』との位置関係について、格別の疑問を抱く事は無かった。 基本的にこの段階の人類は、自然の中で森羅万象とともに生きていた。自然は全てであり、自分の運命も含めて全てのものをあるがままに受け入れていたのである。 しかし文明を持つに至った人類世界においては、この状態は現実には有り得ないものであった。まさに『ユートピア(存在しない世界)』なのである。
ただ現代においても、世界の『秘境』と呼ばれている地域で原始さながらの生活を送っている人達においては、彼等は自然をそのまま受け入れ、自然環境との摩擦もほとんど生ぜず自然と共に暮らしており、基本的にストレスのない世界で、何万年もの間生活してきたのである。

Aレベル2 歴史以降〜科学以前  発達心理学の段階で言うと、人間の『第一反抗期』のレベルに該当する。
この段階における人間の基本的スタンスは、『家族あるいは一族以外は敵』であった。
自分達人間が不完全でもろく傷つき易い存在である事については十分な認識があり、そして人の外環境(自然)についても、それは不可解な存在であり、人間社会と個人を脅かす恐ろしい存在であると認識していた。特に自然条件の厳しかった中近東や中央アジア、ヨーロッパなどにおいてその傾向は強く、自然とは、自らを育んでくれる優しい存在ではなく、『戦って征服すべき存在』であるとのスタンスを基本的に持っていたのである。
 そして、自らの外部環境を not OK (基本的に『敵』である)と規定した場合、その存在との確執において、多分にストレスが生じることとなり、それへの具体的対応として人は『宗教/信仰』を生み出したと考えられるのである。

Bレベル3 科学以降  発達心理学の段階で言うと、大人になる直前の『第二反抗期』のレベルに該当する。
ヨーロッパのルネサンスにひとつの端を発した、外環境を懐疑的な見地から再度見直して、この世界の本質を再構成する、『科学的見地』に立った考えを人類は持つようになった。同時に人類は、自らをも見つめ直し、自己と環境との関係をも二元論的見地から再構築するに至った。この時点で人類は、人間自らの尊厳性に目覚め、外環境に対して自らの独立性の確立を目指すこととなった。 もはや人は神が作った不完全で弱いちっぽけな存在ではなく、叡智を持った素晴らしい存在であり、自らに対立する自然(外環境)は、征服すべき対象である、とした。人を取り巻く環境は、人がコントロールすべき対象であり、知恵を持った人類が環境の全てを支配するのは『当然』である、とされた。
この段階ではじめて人間は自らを肯定し I am OK との思いを持つに至った。しかし一方、特に西欧社会のスタンスにおいて、人間社会の外縁に位置する全てのものに対して、それは『征服し支配すべき対象』であり、この You are not OK のスタンスは、前のレベルから引き継いでいるのである。そして当然の帰結として、相手を根本的に否定するこのレベルにおいても、それらとの確執において、基本的に様々なストレスが発生する。むしろ以前のレベルに比し、自己と他者に対する評価の落差により、より大きなトレスを生み出すこととなったのである。 そしてこの段階においては、また必然的に、人のなしうる影響力が拡大するに比例して、大々的な自然の征服つまり環境破壊や自然破壊が行われることとなり、19世紀初頭以降の、人はその環境を制圧しうるという、無邪気な人間社会の無限拡大思想の延長で、それまで敢えて省みなかった自然から、今になって手ひどいしっぺ返しをこうむりつつある訳である。

Cレベル4 きたるべき社会  発達心理学の段階で言うと、人間の『成人』のレベルに該当する。
 この段階において、はじめて人間とその環境(内環境・外環境)が相補的に共存する。 人間各個人が、人間社会という内環境と自然環境や森羅万象という外環境の、双方に対しそれとの共存と相互認知を行ない得ることとなる。 科学技術の発展によって、人は自己をより客観的に認識することが可能となり、社会の発展によって人類社会全体の共生がある程度のレベルで実現し、そして人間自身の認識の向上によって、人は自然の一員であり、それと共存すべきものであること、そして自然環境との共存なくして人類の存在もまた有り得ない事実に対する認識が基本的なコンセンサスとなった社会を実現させることとなるのである。この段階においては、人は個人間や組織間の競争はあっても、根本的なレベルでの戦争や殺戮などの抗争や闘争は例外的となり、したがって、人類全体としてのストレスは、基本的には発生せず、より安定的な社会の構築がなされることとなる。
この社会全体として I am OK and You are also OK の段階が実現して、初めて人類は種として、そして社会システムとしても、基本的な完成を見ることとなるのである。

※上記の図において、社会の段階をレベル1〜レベル4と表示したが、基本的にはレベルが上がる程、複雑高度な社会構造を取ると考えられる。 しかしそれとは別に、必ずしもレベルが上の社会が下の社会に『勝っている』とは限らないのである。現代においても、地球上の一部には原始時代と変わらない生活をしている社会も存在しており、そしてそこにいる人たちと我々とどちらが環境に対し合理的であり快適な生活を送っているか、そして何より重要な事はどちらが『幸福』であるかを考えれば、一概に結論は出せないことが理解できよう。 現代の地球上においては、レベル1の社会からレベル3の社会まで並立して存在しており、先進国の国民は皆幸福で、開発途上国の人々は皆悲惨な生活を送っているかといえば、全く違うことは明らかである。 ブータンが提唱している『国民総幸福量(GNH)』の考えに代表されるごとく、科学技術のレベル向上や国民総生産(GNP)の向上は重要ではあるが、それだけでは社会の成熟度は測ることはできないのだ。
 しかし、だからといって人間社会がずっとレベル1の段階に留まっていて良いというものでもない。(それは既に、ひとつの生物種としては完成の域に達していたホモ・エルガスターあたりの段階から、我々のご先祖様が百万年以上にわたって経験してきたことなのである) 社会として、より進歩し『知恵を授かった種としての人類』の本分を全うするためには、やはり様々な葛藤を経験しながらも、社会レベルの向上を図ってゆくのが当然であると思われる。人間社会はレベル2〜レベル3という、より困難な時期を経て、自己の再認識と再構築を必然的に行なってゆく宿命を背負っていると考えられるのである。

☆現代社会の位置付けについて
上記の流れで人類社会の発展段階を見た場合、21世紀初頭の現代社会は、レベル3からレベル4に向けての過渡期にあると考えられよう。
現代世界の国家体制においては、その大半の国が、取り敢えずのレベルではあるが『民主主義社会を実現』しており、その大半は『社会システム』としてはレベル4へ移行しつつあると判断できよう。 しかし一部の社会主義政権や独裁国家は、未だ民主化が遅れており、世界の全ての国と地域がその流れにあると言うわけには行かず、それらの一部は従来の段階に留まったままである。 (ここでは人類『社会』を、人間の『内環境』と定義する)
※ここでいう『民主主義社会』とは、それを構成する市民の相互信頼、つまり自己と他者とを共に認め合う事を基本的な概念としており、その相互信頼関係の中で実現されると判断する。 勿論、それは比較論での話であり、全ての地域や国家において完全な形での民主主義社会が実現しているわけでは決して無く、全ての市民の人権が完全に保障されていると判断できる国はいまだ皆無であるが。現代の各国の中では、依然として不公平や不公正がまかり通っている部分も多々存在することは事実である。しかしそれらの国において、建前としては勿論、実際面においても何とか民主化が達成されているとされるレベルであったとしても、長期的に見た場合、もはやその流れが後退する事は考えられない。既に民主化という『ルビコン川』を渡った国は、情報化社会が実現した段階においては、いかなる政権が誕生しようと後戻りは不可能であると考えられる。かつて古代ギリシアで生起した類の、民主主義の堕落が僭主政治を産み専制政治に取って代わられるといった流れは、ユビキタス社会が実現し基本的に全ての市民が情報ネットワークに参加でき、また民主主義社会の基本概念が確立した現代では、あり得ない事と思われるのである。

◎『アメリカ』が情報化社会を実現させたことに対する、歴史上の必然性について
 人口では世界3位の2億9700万人であり世界人口の4.5%を占めるに過ぎない国が、世界の富の実に4割を保有している、アメリカの原動力とはいったい何であろうか。
現代で唯一の超大国となったアメリカの繁栄は、建国以来のプロテスタンティズムによって培われてきたとされている。その思想においては、勤勉な労働は神に保証されたもので、真面目に努力する事は即ち神に仕えることに他ならなかった。そしてこのプロテスタンティズムの精神が、まさに近代資本主義社会を構築した原動力であり、その伝統は今でも受け継がれ、この国に継続して入ってくる移民たちにもその思想は伝えられている。 そしてこの思想のもとで、自らの勤勉によって繁栄を謳歌する事は神により保障された不可侵の権利であり、それを妨げようとする如何なる規制や妨害に対しても、断固拒否する伝統は彼の国の基本的な国是となっているのである。 実際のアメリカは、ネオコンと称する新保守主義派とキリスト教原理主義者が推す『共和党』と、そしてリベラルと呼ばれる自由主義者が推す『民主党』の二大ブロックのバランスにより動かされてきた。
そしてまさにその思想が如実に反映されたのが『インターネット』なのである。(ここでいうインターネットとは、狭義のインターネット(The Internet)をさす) 1969年に米国で開発された軍事用の『ARPANET』に端を発したコンピュータネットワークは世界をまたにかけて普及し、1995年から民間移管され、その後は特定の集中した責任主体を置かず、国際的に中立的とされる民間組織により運営されている。 一般には、Windows95などの登場により、個人でのインターネットの利用に加速が付き、その後の爆発的な普及をみた。
現在のインターネット普及率は全世界で8.9億人、人世界人口の13.7%(2004年)が活用している計算になり、普及率が50%を超えている国も20カ国以上存在しており、現在においても急速に普及の度を早めている。このインターネットは、基本的にその回線に接続すれば、あとは全てフリー(ただ)で使用が可能であり、この画期的なシステムは、たちまちのうちに世界中に普及し、情報化社会/ユビキタス社会実現のための世界的なバックボーンとなったのである。現在のインターネットに対する、『世界中の人々がいつでも自由に、基本的に無制限に使用できるシステム』という思想は、必然的に『アメリカ発』でなければ実現する事は不可能だったに違いないのである。
 もし仮に日本が主体となってそれを実現しようとした場合、政府によってガチガチに規制の網が掛けられ、役人天国の政府外郭団体による利権構造のもとで、国民や企業が高い使用料を払って『使わせていただく』システムに、間違いなくなっていた筈なのである。またEU諸国はじめ他の国々においても、完全にフリーの形での情報システムの構築は不可能であったと思われる。 日本のハイウェイ(高速道路)が世界的にみてもバカ高いのは、役人と族議員による人災によってであり、インターネットという『情報ハイウェイ』が幸いにしてアメリカ発であった為に、それは『オールフリー』となったのである。
 人類が、きたるべき社会を実現させるための、その大前提としての情報化社会を迎えるためには、アメリカという国の存在と、その自由思想が必要だったと言えるのである。若し米国のこの取り組みがなかったとしたなら、人類が情報化社会を迎えるのは、もっと先になっていたと考えられよう。

◎人類史における共産主義と社会主義国家の位置付け
 1917年のロシア革命に始まり、1989年のベルリンの壁崩壊でその終焉が決定的となった、70年以上人類社会で続いた『社会主義政権』はなぜ崩壊したのか?という疑問に対し、現在までに様々な各氏の論が述べられている。本節の流れに沿ってそれを考察した場合、やはり基本的にはその思想が、『人間の持つ根本的価値観(人間性)に合わず、社会進化の方向に逆行した動きでしかなかったから』というのが真相と思われる。 産業革命を成し遂げた人類社会が次に目指す究極の体制であるとされた共産主義社会であったが、それは到底レベル4の段階と呼べるものではなかったのである。
 19世紀終盤において、主にマルクスとエンゲルスが基本理念を掲げた共産主義思想は、その後スターリンや毛沢東などの実践者の都合によって半ば意図的に換骨奪胎され、最終的にはマルクスやレーニンが描いた共産国家/社会主義国家は存在し得なかった、ともされている。 この歴史的事実により、共産主義思想は絵に描いた餅であり、『壮大なペテン』であったとされた。 そして20世紀末における社会主義諸国家の崩壊は『壮大な社会実験の終焉』とされたのである。
 20世紀中に、国家内において自国の政府によって殺された人の数は1700万人にのぼるとされており、この『政府による殺人』が行なわれた国は、その大半が旧ソビエトやカンボジアなどの共産国なのである。(R.Jランメル 『政府による死』)また別の一説では、スターリン・毛沢東・ポルポトの3人が虐殺した人の数は、合計で数千万人にのぼったとも考えられている。
 基本的に(マルクス、エンゲルスが唱えた)共産主義思想は、彼等が発表した『共産党宣言』の内容に見られる如く、『被害者意識』をその根底としており、そしてそれは必然的に『敵』を必要とし、搾取・闘争・打倒・密告など、 You are not OK! とするレベル3の段階の思想でしかなかったのである。 彼等が志向した社会システムにおいては、したがって根本的にストレスの発生と抗争の常態化を内包しており、決して安定的に永続し得るものではなかったのである。 これらの思想が、相互信頼と共生に基づくレベル4の実現を意図する『民主主義思想』に敗退したのは、当然の帰結であった。 決して、フランシス・フクヤマなどが述べている如くの、『自由主義や資本主義が共産主義に勝った』のではないのである。
以上の観点から、21世紀の現代にも未だに生き残っている社会主義国家の将来を考えると、それは人類社会の進歩の中で必然的に淘汰されるものでしかないと言えるのである。 故に、中華人民共和国や北朝鮮の共産党政権の瓦解は時間の問題であると断言できよう。 彼の国々が『あたりまえの国』となる時期はやはり近い将来であると思われ、より具体的には、中国が民主化される時期は、現在のチャイナバブルが崩壊する時期、早くて2008年の北京オリンピック以降、そして遅くとも2010年の上海万博後が想定されよう。

◎共産主義思想の対極にあったもの
 20世紀後半の冷戦構造下において、イデオロギー対立構造が最前面に押し出されていた当時、共産主義の対極にある(はずの)アメリカを主軸とした『自由陣営』であったが、その思想においては、嘗ては“共産主義という『絶対悪』を懲らしめ、自由と民主主義を守る正義の戦士”というコンセプトに基づいていた。しかしその勇壮なプロパガンダの実態は、その対立相手と同レベルの『勧善懲悪』主義に基づくものであり、悪い敵つまり『 Not OK の You 』の存在を大前提としており、やはりレベル3の考えでしかなかったのである。 そしてこれらの『天に代わりて不義を討つ』式の考えは、容易に他者をして『倒すべき敵』として扱うものであり、ソビエト崩壊以降、唯一の超大国となったアメリカが、しばしば世界の国々の中からわざわざ『敵を作る』行為を行うのも、この思想の延長線上の事なのである。各氏の論の中には、この傾向は『アメリカ産軍共同体』の体質そのものである、と断ずるものもあるが、彼等アメリカ政府の論理と自己正当化の考えは、基本的にこの流れの延長に存在するのと考えられる。
そしてこの考えは、一神教思想に基づく『二元論』をその根幹においており、彼の国がその力の論理を卒業するには、これら二元論の呪縛から脱却する必要があるのである。

◎原始共産制について
 以上述べた如く、共産主義思想は基本的にレベル3の思想であり、恒常的にストレスの発生をみる。
しかし、『原始共産制』と一括して呼ばれている、主として未開(とされている)部族間で行なわれていたゆるい社会システムは、基本的にはレベル1の社会と見るべきである。 人類学などの研究によると、彼等の社会は、「贈与原理」や「愛他原理」「共同体原理」などに支えられた、一面大変合理的かつ公平そして持続可能な社会であったとされているのである。そして彼等内部における対人関係や環境とのかかわり方においては、それら You との軋轢を生じないために概してストレスとは無縁な穏やかな社会であった。
 人類学の創始者のひとり、H・モーガンは『古代社会』で一世紀も前にこう述べている。『統治におけるデモクラシー、社会における同胞愛、権利における平等、普遍的教育。それは原古の氏族の自由、平等、友愛のより高い形態での復活であろう』 つまり自由、平等、博愛などの近代デモクラシー思想は、西欧近代国家のオリジナルな発明ではなく、古くから人類が保持していた普遍的な共生社会のあり方を換骨奪胎したものであったのだ。
ただし、カンボジアの独裁者ポル・ポトが目指したとされる『原始共産主義』は、まったく似て非なるものである。

☆現代社会の軋轢について
 現代民主主義社会は、上記のごとく基本的にレベル4を志向する社会であるはずだ。しかし現実には様々な軋轢や利害の衝突、そしてテロや戦争、犯罪などが、いとまがないほど発生している。
本来  I am OK and You are also OK ! の思想を是としている筈であるが、何故、個々に見た場合、その実践が大変困難なのであろうか。勿論、この場合の I は多様な価値観を持っており、その価値観と You のそれとが違う場合、様々な齟齬や軋轢が発生する事は当然である。しかし本来、それを乗り越えて相互の合意に至るのがレベル4の大人の社会の筈である。
残念ながら未だに様々な価値観の衝突が絶えない人類社会であるが、少なくとも基本的な価値観については、早急に摺り合わせや見直しを行い、その基本認識の再確認と再調整を行ない、最小限の合意を得る必要があろう。そしてそその実現には、人類全体の基本的価値観について、そのベースの部分で統一をみることが必要となるのである。 その基本的な考えの元となるのが、一つには人類からみた『外環境』に対するスタンスである。 人間のみが一人資源を貪り繁栄するという事は実際にも許されない事であり、地球という大きな環境の中で育まれて来た人類に取り、やはり地球環境そのものが『仲間であり同類』なのである。この、外環境のすべてに対する I am OK and You are also OK ! の態度こそが、本来自然の産物であり、地球環境とともに生きることが人として必然の生き方ではないであろうか。 先述の如く産業革命や情報革命という社会パラダイムの大幅な変革を経験してきた我々は、人が生きてゆくための価値基準や行動規範を、それ以前から保持してきた古い基準、規範を捨て去る必要があったがために一時的に見失っており、そのために社会内部や環境に対して軋轢が増大しているとも言えよう。現代社会において、様々な考えや思想が混在し、レベル1からレベル4までの思想を信奉する人達がそれぞれ良かれと思う事を行い、その結果、カオスとも言うべき情況を呈しているのである。
 イラク戦争やアフガン戦争などは、その大義名分や政治的経済的思惑は別として、一面でこれは紛れも無くキリスト教徒とイスラム教徒との『宗教戦争』でもあり、それはパレスチナ問題においてもまた然りである。そして一方では未だに社会主義思想を大義名分にして国際社会から孤立している国も存在するが、その人たちも含め、人類全体が次の社会ステップへ移行する事こそ、現代の急務となっている。南北間の格差や環境問題、エネルギー問題、資源枯渇問題、地球温暖化など、これらを抜本的に解決する為には、人類社会全体の思想的パラダイムを一気に変革する必要があるのである。

    



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